2014-01-28
赤羽有紀子のラストラン!



 日本人トップで赤羽が長居の競技場に入ってきたとき、場内は大きな拍手でわきたった。それは先に駈け抜けたウクライナのガメラシュミルコをはるかに上回っていた。両手をあげてスタジアムの声援にこたえる赤羽、サングラスを外した彼女の横顔にさわやかな笑みがやどっていた。彼女はもう、ふたたびアスリートとして競技場に立つことはない。ゴールするまでに、なんども、なんども手をふって、観衆にこたえていた。
 最後まで走りきった安堵の笑顔というべきか。悔いなくラストランを終えた満足の表情というべきか。ゴールテープをきったときの笑顔がなんとも美しかった。

 赤羽有紀子。
 ながく日本の女子長距離のひっぱってきたランナーである。日本最初のママさんランナーとしてもよく知られている。ぼくがHP「福本武久の小説工房」に、独断と偏見による駅伝観戦記『駅伝時評』をオープンしたのが1997年、奇しくも同じ時期に、赤羽は登場している。それいらいおよそ26年、彼女の走りをウオッチしつづけてきたことになる。

 どちらかというと遅咲きのランナーである。高校時代はさしたる実績もない。全国的には無名のランナーだった。全国デビューは第16回全国女子駅伝(1998)である。真岡高校3年のとき、栃木代表として4区に登場、区間3位という記録が残っている。
 女子駅伝の強豪・城西大学に進んでからは全日本大会で4年連続区間賞にかがやいた。エースとして、つねに長い距離をまかされ、母校の優勝をもたらした。だが、当時は大学女子駅伝のグレードは低くかった。大学時代に全国女子駅伝に3度出場しているが、準エース区間の1区をまかされたものの区間成績の最高は7位、女子の全日本レベルで、まだまだ無名に近かった。
 彼女が女子長距離ランナーとして開眼するのはホクレンに入社して3年目からである。大学時代の同級生でランナーだった浅利周平と結婚、赤羽自身は結婚を機に引退するつもりだったらしいが、ホクレンに慰留されて競技続行を決心した。夫の周平がホクレンのコーチにつき、赤羽専任になってから、快進撃が始まる。
 2005年11月27日に5000mで日本歴代4位にあたる15分11秒17をマーク、日本のトップランナーに躍り出た。翌年8月には女児を出産、その後も競技を続行する道を選び、日本初のママさんランナーとして注目を集めた。
 赤羽が衆目をアッといわせたのは2007年11月の国際千葉駅伝である。ナショナルチームのアンカーとして登場した彼女は、トップをゆくケニア代表のキャサリン・ヌデレバ(アテネ・北京オリンピック女子マラソン覇者)を逆転、日本チームに優勝をもたらしたのである。

 結婚、出産を経験して強くなった赤羽の勢いはとまらない。同年12月には10000mで翌2008年の北京オリンピックA参加標準記録を突破、2008年3月の全日本実業団ハーフマラソン(山口県)では1時間08分11秒、野口みずきの大会記録を更新して優勝した。

 北京五輪の内定がもらえる2008年6月27日の全日本選手権の10000mは歴史に残るレースとして今もくっきり記憶に残っている。
 女子長距離トラックの第一人者である渋井陽子・福士加代子の両雄とラスト1周まではげしく競り合った。残り1周の鐘で赤羽が先頭に立った。優勝をのゴールをめざして乾坤一擲のラストスパートをかけた。のゴール目前の直線で渋井に抜かれ2位に終わったものの、31分15秒34の自己ベストをマークした。2日後の6月29日の5000mでも小林祐梨子に次いで2位でゴール、文句なしに力で両種目の北京代表をもぎとった。ママランナーとして史上初のオリンピック代表である。

 2009年1月、大阪国際でマラソンデビューを果たし、2位でベルリン世界陸上のマラソン代表になるが、脱水症状で31位、2010年の大阪国際で再起を期したが、故障をかかえての出場で途中棄権という挫折を味わった。
 2011年1月の大阪国際でマラソン初優勝、世界陸上大邱大会の代表にもなったが、マラソンではいまひとつ乗り切れないレースがつづき、ロンドン五輪の代表に漏れ、世界陸上モスクワ大会の代表も逃してしまった。その赤羽がラストランに第33回大阪国際女子マラソン(2014.01.26)を選んだのである。見逃すわけにはいかない。

 本大会をラストランと宣言した赤羽、スタートから積極的だった。
 レースは若い重友梨佐(天満屋)が序盤から軽快にひっぱり、最初の5㎞=17:09だったが、5~10㎞は16:44と上がった。好記録の予感ありのハイペース、「速い」と感じたというが赤羽はしっかり先頭集団についていた。連覇をねらうガメラシュミルコはその後ろにいたが、赤羽には躊躇はなかったようである。これで最後だ……という想いが、背中を押したのだろう。

 最初にレースが動いたのは15㎞すぎだった。
 給水ポイントでポーランドのヤジンスカが飛び出した。いかにも力感あふれるフォームでトップに立ちレースを引っ張った。ここで若手期待の重友がついて行けずに、じりしじろ後退したのは意外だった。
 単独トップに立ったヤジンスカを赤羽が追った。19㎞手前でとらえて併走状態にもちこんだ。だが、後ろから満を持していたガメラシュミルコのエンジンがかかった。20㎞ではおよそ44秒の差があったが、じりじりと追い上げてきて、32㎞すぎでは追いついてしまった。
 先頭集団は3人になったが、34㎞でヤジンスカが遅れはじめた。赤羽とヤジンスカのペースがあがったというわけではない。ヤジンスカがペースダウンしたのである。かくして優勝争いは赤羽とガメラシュミルコのマッチアップになったが、ここからの赤羽の走りが圧巻だった。
 35㎞~37㎞までの両者の攻防は見応えがあった。ガメラシュミルコの後半の強さは誰もが知るところである。赤羽はそれを承知で35㎞すぎからなんどもスパートをかける。ガメラシュミルコを引き離しにかかる。だがガメラシュミルコも素早く対応した。これもまたさすが…と思わせられた。
 35㎞といえば、マラソンでは最も苦しいところである。ここで赤羽は渾身のスパート、それも執拗に繰り返した。35㎞をすぎて、これほどの勝負が出来る。現在の日本人ランナーのなかには皆無である。ラストランのランナーがそんな走りをしたこと、驚きというほかはない。肩の力がぬけて、リズミカル、ほれぼれするような走りだった。
 めまぐるしいトップ争い。だが37㎞すぎだった。ガメラシュミルコが前に出てると、もう赤羽には追う脚はなかった。

 赤羽の健闘は称えねばなるまい。最後までめいっぱい勝負をかけての負けなのだから、いたしかたのないところ。股関節や足首に不安をかかえ、コンディションは必ずしも万全ではなかった。「走ってみないとどれぐらい走れるか分からない」といっていたが、むしろそれが好結果に結びついたというのか。ラストランという開き直り、あるいは精神的な開放感もあったのかもしれない。

 ゴールした後、スタンドに挨拶したあと、赤羽は待ちうけていた夫でありコーチでもある周平氏の胸にとびこんでいった。コーチとして終始、選手としての赤羽をサポートしてきた周平氏の、いかにも満足そうな笑顔も好もしかった。
 赤羽の走りを讃えたいと思うが、それと裏腹に、日本女子のマラソン・長距離の未来に想いを馳せると、なんともはやお寒いというほかない。これはどうしたことなのだろう。 今回の招待選手のなかで、期待の星は重友梨佐であった。2年前の大阪国際で日本歴代9位に相当する2時間23分23秒で優勝。ロンドン五輪では惨敗したが、年齢的にみて25歳の重友あたりの世代が日本を背負わなければならない。本大会で復活して、新しいリーダー名乗りをあげてもらいたい。関係者はこぞってそう思っていたはずである。ところが自己ワーストの64位。さらにトラックの第一人者。新谷仁美も31日に引退を発表するという。日本女子の長距離・マラソンはどこにゆくのか。

 本大会で4位に仏教大の4年生で今春ダイハツに入社する前田彩里、後半の走りは勢いがあった。だが、マラソンはそんなに生やさしくはない。彼女の次走りに多くを期待するのは酷というものである。ながく「駅伝時評」をつづけてきて、男女ともこれほど顕著に、マラソン・長距離「冬の時代」がやってきたのは初めてのことである。
 各実業団チームとも選手層が薄くなった。マラソンをめざす選手がきわめて少なくなったのである。
 日本のアマスポーツは総じて実業団が支えてきた。実業団を中心としたプラミッド組織で選手たちは養成されてきたのである。一般企業による実業団が多額の資金を投じて、スポーツ選手を育成強化してきたのである。たとえば「駅伝」だが、チームを持とうと思えば年間2億から3億ぐらいかかるらしい。宣伝費と思えばいいわけだが、バブル景気崩壊後、この実業団システムが崩壊してしまった。
 駅伝チームを持つ企業にしても、最近は資金がまわらなくなった。宣伝に結びつく目先の駅伝をフォローするだけで精一杯、手間ひまかかるマラソン選手の育成にまで手が回らなくなってしまったのが現状だ。
 赤羽有紀子、新谷仁美の引退、日本女子のマラソン・長距離にとって、確実に一つの時代が終わったような気がする。

 ところで……
 ながく二人三脚で歩んできた赤羽夫婦、今後、いったいどういう人生を歩むのだろうか。ラストランの肩の荷をおろして、笑顔で抱き合う2人の姿をみていて、わけもなく、ふと、そんなことを思った。きっと小生が小説書きゆえのことだろう。彼も彼女もまだ折り返し点にも達していない。未来は無限なのである。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2013-03-21
BOATRACEと花見、そしてアラセブンの同窓会

 春分の日……
 PASMOを持って都内に繰り出した。春めいた気候に誘われたというわけではない。夕刻から浜松町で大学時代のサークルの同窓が集うことになっていた。かつて京都御所の近くで学んでいたアラセブンの男女8人がひさしぶりに花の東京のどまんなかで顔を合わせるというわけだった。
 これといってアテもなく自家をとびだしたので時間がたっぷりある。浜松町を通り越して大森まで足をのばした。この日、平和島BOATRACE場ではSG総理大臣杯の優勝戦があった。だが舟券はその日の朝、すでにNET投票で買っておいた。だからもっぱらレースの観戦である。
 平和島は人であふれていた。さすがはSGレースである。競艇場や競馬場にゆくのは雑踏のなかで独りになれるからである。何もかも忘れて自分ひとりになれる空間がそこにあるのだ。
 レース場は連れがいるといけない。二人、あるいは三人いたといて、そろって舟券で好成績をあげることなど、まず、ありないからである。どうしても勝ち組と負け組とのあいだに温度差が出来てしまう。なんとも気まずくなってしまうのである。
 まずは腹ごしらえ。平和島といえば「さざなみ」の煮込み定食。だが、この日はそれをパスして、和食の惣菜をバイキング形式でチョイス、マグロのぶつ切り、赤魚鯛の塩焼き、胡瓜の酢の物……。
 優勝戦は1号艇の池田浩二が勝つに決まっている。前日からそのように信じて疑わなかった。今まで買ったこともない単勝の舟券でも買ってみるか。そうすれば少なくとも平和島にやってきたという証になるはずだ。思いついて池田浩二の単勝を100円だけ買った。

 

9Rの発売中のことだった。イベント広場が突如としてたいへんな人だかり。たむろする誰もが携帯のカメラをかまえている。何があるのか。雑踏を縫って人と人とのあいだをのぞくと、アッキーナこと南明奈の笑顔がちらと見えた。さすがSGならではのゲスト。
 だいたい最終日は荒れる。荒れることになっている。9Rは5号艇、10Rは6号艇、外枠になったがゆえにノーマークの艇が1マークでするすると抜けだして、あれよあれよの逃走劇。ともに2万舟券である。ひえーっ、6号艇が来るのかよ! 後ろのオジさんが悲鳴をあげていた。
 万舟が出るということは、大部分のファンがにがっぽり巻き上げられた証左である。メインのまえに荒れると、ファンは総じて平常心をうしない、取り返そうなどと気色ばんで穴狙いに走る。だが、こういう日は皮肉なもので逆にメインは堅くおさまるのが常なのだ。
 舟券を買わない小生は11Rが終わったところで引き揚げ、ファイナルは観ないでレース場を後にした。大森駅までのシャトルバスのなか、すぐ後ろの座席で舟券談義! 「今日一日で5万ほど負けた」「おれは初日からずっと来てるが、ぜんぶで15万円は負けたな」負けたのを自慢しあってどうするのだ。あっけらかんといているから、まあ、いいとするか。
 浜松町にもどると、まだ1時間ほど余裕があった。
 増上寺の桜はどんなぐあいだろう。時間つぶしに足をのばした。桜はちらほら、見物人もとらほら。全体的に観て四分咲きといったところか。



 境内の一角に人の輪ができている。猿回しとはいまどきめずらしい。相棒のサルに語りかけるオヤジの威勢のよい声だけが構内にひびきわたっていた。



 ようやく夕暮れ……。
 そぞろ歩きで浜松町の貿易センタービルにもどる。ちょうど集合時間の10分前、エレベーターホールにゆこうとすると、遠くに見慣れた顔、向こうも気づいたらしい。笑顔で手を振っていた。
 半日もまわり道、ようやく目的地にたどりついた。
 
 

 
 
 



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2013-03-10
真説・池田屋事変

 京都の庶民の側からこの池田屋事変をみると、なんともやは無粋な出来事というほかなかった。この日は祇園祭の宵宮にあたっていた。事変は京都市民の最大のたのしみをぶちこわしたのである。
 当時、尊攘激派の志士たちは祇園、三条、木屋町界隈、下河原あたりの茶屋や町屋に潜伏していた。かれらは御所に火を放ち、混乱に乗じて松平容保らを暗殺し、天皇を奪おうともくろんでいた。
 とてつもない、その陰謀は、志士たちの連絡係をつとめていた古高俊太郎の捕縛によって発覚した。古高は四条小橋付近に店をかまえ商人に化けていたが、武器・火薬をあつめているのがきっかけて発覚してしまったのである。
 古高がとっつかまってしまったので、志士たちは、その善後策をどうするか相談するために池田屋に集結していたところを襲われたのである。
 志士たちは相当泡を食っていたものと推察される。宵宮の雑踏すら念頭になく、迂闊というほかない。しかし、これを急襲した新選組は実に用意周到で、この祭りを最大限に利用したのである。
 新選組の隊士たちは、何食わぬ顔の平装で壬生の屯所を出発し、目立たぬように数人ずつに分かれて町にはいり、四条の町会所に集結して武装した。かれらは京都守護職預かりという立場ゆえに、京都の街の自治組織を自由に利用できる立場にあったのである。
 新選組の隊士は二手に分かれて池田屋に切り込んだが、総勢にしてわずか三〇数人にすぎなかった。
 だが、池田屋の周囲を守護職の会津藩、京都所司代、一橋、彦根などからくりだしたおよそ三千の藩兵たちが、取り囲んでいた。三条から四条を、武装した兵たちが幾重にも包囲しており、志士たちは袋のネズミだったのである。
 まるで市街戦というべきで、志士たちは逃げおおせることはできなかった。テレビドラマなどでは新選組の活躍なかりが目立っているが、実際は幕府側が総力をあげた大捕物だったのである。
 むろん山本覚馬も出陣している。そして翌朝、京都にのぼってきていた佐久間象山のもとにおもむき、さっそく、その顛末を報告しているのである。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-12-21
八重と尚之助、のちに会ったのか?




 この8月から11月にかけて2013年NHK大河ドラマの主人公となる新島八重に関連する小説、評伝をあわせて6冊刊行しましたが、読者のみなさんから、かなり突っ込んだ問い合わせがきています。

 小説作品としては『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(ともに新潮文庫)『小説・新島八重 勇婦、最後の祈り』(筑摩書房)の3部作があります。

 お問い合わせの多くは、基本的に「どこまでが史実で、どこまでが事実か…」というところにゆきつく質問です。

 小説作品というのはフィクションを弄する文学作品であることは自明のことです。しかし同作は歴史小説であり、実在の人物をあつかっておりますから、実在の人物は本名で書き、歴史的事実は克明に調べ、執筆時点で歴史的事実には正確を期しています。

 新島八重の人生は波瀾万丈の人生といえば、いかにも、ありきたりです。だが、そのように表現するほかない生きざまで、何の虚飾もなしにドラマになってしまう。筋だけをうまくつないでまとめて、それだけで歴史読物にすること、かんたんにできてしまいます。ただの物語として読者のアタマのなかに流し込もうとすれば、それでいいわけで、あえて小説というカタチにしなくてもいい。むしろ書籍としてはそういうモノのほうがよく売れるかもしれません。

 小説にするということは、物語として伝えるだけではありません。ことばの表現に工夫をこらし、物語を具体的な場面に構成して、そこで人と人との触れあいや葛藤、人とモノとの関わり、人と事件との関係などを、活き活きとことばで描いて、ひとつの世界を作り出すことなのです。

 そのようにして出来上がった小説について、事実とフィクションを腑分けせよといわれても、作者としては「小説であるからには、すべてがフィクションであり すべてが事実である」としか答えようがないのです。

 とくに問い合わせが多いのは、『小説・新島八重 新島襄とその妻』にある八重とかつての夫・川崎尚之助が江戸で邂逅するという挿話です。

 これについても同じ台詞を繰り返すほかありません。ただし、今回、小生は愚かにも小説3冊のほかに新書版で『新島八重 おんなの戦い』(角川書店刊 角川0neテーマ21)というミニ評伝を出しております。これはノンフィクションですからフィクションはありません。立ち読みでページを繰ってもらえば、すぐに答えは出るはずです。

 かつて小説記述としての同個所をノンフィクションの評伝に、事実として使った無謀な書き手がいました。むろん著作権問題に発展したことは言うまでもありません。



1 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-11-27
キンドルがやってきた!

 

 

 


 10月に予約しておいたKindle Paperwhiteが今朝とどいた。

 購入したのは3Gタイプ。無線LAN環境がととのっていないので、とりあえず価格の高いほうの3Gタイプ、つまり携帯電話がつながる環境であれば、本をダウンロードできるタイプにしている。通信費はAmazonの負担だからいっさいかからない。

 電源さえいれれば、ただちにフル稼働できるというのがAmazonのウリである。さっそく電源を入れて、マニュアルにのっとってキンドルストアにゆき、とりあえず書籍を一冊買ってみた。モタつくこともなく、わけなくダウンロードが完了した。

 KindleそのものをAmazonのサイトにいってカード決済で買うと、すでにして機器そのものがユーザー登録されて届けられる仕組みになっている。だから、ワンタッチで本が購入できるカタチになっている。IDやカードナンバーの打ち込みも、あらためて実行する必要もないのである。

 ダメモトでウエブプラウザも試してみた。Wi-Fiを設定しろ…というので、ダメモトでやってみると、なんとTwitterにつながってしまった。いまのところKindleは電子本を読むだけで、これでTwitterをやるつもりは毛頭ないのだが、こんなこともできる。

 無料本もいくつかダウンロードして読んでみたが、Kindle用につくられた電子本は、レイアウトもすっきり、バックライトのあるせいか、鮮明な画面で読みやすい。

 自分でつくったPDFの電子本もUSB接続で転送して試してみた。もともとKindleを意識した画面構成になっていないので、文字が小さくて、ちょっと読みづらかった。 しかしKindleの画面を意識してさえ作成すれば、これも十分に対応できそうだ。

 問題はAmazonの電子本コンテンツがどれほど充実されるかということになるだろう。現状でははっきりいって,小生が読みたい本はほとんどない。それに価格がかなり高い。電子本といえども、ほとんど紙の本と同価格になっている。同じ価格なら、小生は躊躇することなく電子本ではなくて紙の本を買う。

 電子本の場合、製作費からみても半値位以下、3分の1値ぐらいにしてもらわねば、読み手の食指は動かない。

 ま、それはともかくとして、Kindle Paperwhite は本を読むツールとしては、かなりの優れものとみた。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-11-16
『小説・新島八重』シリーズ完結編


 
 
  筑摩書房より刊行の『小説・勇婦、最後の祈り』(11/21発売)は『小説・新島八重』シリーズのいわば完結編ですが、例によってある雑誌から、またまた著者による著書紹介を依頼されました。以下はその原稿です。

 
                    ◇◇◇◇◇◇◇
  

 数えで八八歳まで生きた新島八重はいくつもの顔をもっています。「さむらいレディー」というべき会津若松時代は、洋式銃砲という近代兵器に眼をむけていたという一点で先駆的でした。新島襄とともに暮らしたクリスチャンレディーの時代は英語を学び,聖書を学び、文字通り近代女性として颯爽と駈けぬけました。

 先に刊行した『小説・新島八重 おんなの戦い』『小説・新島八重一新島襄とその妻』』は、そういう時代を描いており、それぞれ自立した作品世界をなしています。本書『小説・新島八重 勇婦、最後の祈り』は、それら連作のフィナーレをなす作品です。

 新島襄亡き後の八重は社会活動に身を投じ、たとえば日清・日露戦争では篤志看護婦として従軍、看護は女性にふさわしい職業であり、女といえども国家に役立つことをみずから実証して見せました。晩年は当時としては珍しい女流茶道家として、女性の茶道人口拡大に力をつくしながら、終生にわたり新島襄の、会津戦争の語り部をつとめています。八重はこのように、つねに時代の最先端を歩んでいます。

 女が人間としてみとめられなかった時代にあって、良人を亡くし、独り身となった八重が、どのような思いで社会に関わり、時代をこじあけようとしていたのか。孤独な闘いに挑んだ八重、作品世界に登場する彼女の半生がそれにこたえてくれています。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-10-23
八重をたづねて、ふらりと会津へ

ふいと思い立って会津を歩いてきました。

 10月22日(月)朝5時すぎに出発、会津若松駅には9時40分に到着、およそ4時間の旅でした。
 雲一つない晴天で風もない。歩けば汗ばむほどの陽気でした。車中からみた磐梯山は中腹まで紅葉がきざしていました。会津若松の町中、とくに鶴ヶ城周辺は、まもなく紅葉まっさかりになるでしょう。

 駅前に降り立つと、『「八重の桜」を応援しています』という会津若松市のモニュメントに歓迎されてて、街あるきのスタートです。

 500円で1日乗り放題のバスのチケットを買って、左回りコースの「あかべえ」号に乗車、飯盛山、武家屋敷、鶴ヶ城、そして最後は七日町界隈を散策してきました。
 八重の桜による人気のせいでしょうか。月曜日にもかかわらず、観光スポットには観光バスでやってくる人たちがそこそこたむろしていました。

 街には「八重」をあしらった提灯やポスター、看板などであふれていました。笑ったのは土木工事中の標識看板にもキャラクターの「八重たん」が描かれていたこと。



 そんなこんなで人気で街はわきたっているのに、いぜんとしてお膝元の会津でも「八重」はあまり知られていないようです。

 たとえば飯盛山でびっくり仰天のエピソードをひとつ。
 最近は観光客相手にボランティアのガイドさんが活躍しているようです。ある老人ガイドさんの名調子に引き寄せられて、それとなく耳をすますと,どうやら「八重」をとりあげているらしい。ところが「井上八重」と聞こえてきました。聞き間違いだろうと聞き手の輪にはいると、「井上……」「井上……」と繰り返している。おもわず苦笑してしまいました。

 「やめとけ!」と言ったのに,連れが、ガイドの爺さんが話し終えるのを待って、ツカツカと歩み寄り、「井上ではなく、山本ではありませんか?」と声をかけてしまいました。「そうでした、まちがいです。山本です」ガイドさんは、笑って恐縮することしきりでした。

 爺さんガイドさんに悪気があるわけでもなく、「八重」は郷里の会津でもというか、会津だからこそ、あまり知られていない、知られてこなかった。その裏返しではないかとへんな納得のしかたをしておりました。

 会津若松はせまい町です。500円の専用フリー乗車券をうまく利用すれば,渋滞という者がないので、ウイークデーならば、1日でかなりの観光スポットを制覇できます。

 勝手知った街というわけでもありませんが、昼すぎには鶴ヶ城をみてまわり、午後はそこから神明通りから七日町あたりをぶらりと散策、午後になっても穏やかな天候、汗ばむほどの陽差しにめぐまれて、ソフトクリームをナメながら、ひたすら歩いておりました。

 若松を後にしたのは午後5時、9時過ぎにはもう自宅にたどりついておりましたから、やはり帰りも4時間そこそこでした。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
Template Design: © 2007 Envy Inc.