2012-12-21
八重と尚之助、のちに会ったのか?




 この8月から11月にかけて2013年NHK大河ドラマの主人公となる新島八重に関連する小説、評伝をあわせて6冊刊行しましたが、読者のみなさんから、かなり突っ込んだ問い合わせがきています。

 小説作品としては『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(ともに新潮文庫)『小説・新島八重 勇婦、最後の祈り』(筑摩書房)の3部作があります。

 お問い合わせの多くは、基本的に「どこまでが史実で、どこまでが事実か…」というところにゆきつく質問です。

 小説作品というのはフィクションを弄する文学作品であることは自明のことです。しかし同作は歴史小説であり、実在の人物をあつかっておりますから、実在の人物は本名で書き、歴史的事実は克明に調べ、執筆時点で歴史的事実には正確を期しています。

 新島八重の人生は波瀾万丈の人生といえば、いかにも、ありきたりです。だが、そのように表現するほかない生きざまで、何の虚飾もなしにドラマになってしまう。筋だけをうまくつないでまとめて、それだけで歴史読物にすること、かんたんにできてしまいます。ただの物語として読者のアタマのなかに流し込もうとすれば、それでいいわけで、あえて小説というカタチにしなくてもいい。むしろ書籍としてはそういうモノのほうがよく売れるかもしれません。

 小説にするということは、物語として伝えるだけではありません。ことばの表現に工夫をこらし、物語を具体的な場面に構成して、そこで人と人との触れあいや葛藤、人とモノとの関わり、人と事件との関係などを、活き活きとことばで描いて、ひとつの世界を作り出すことなのです。

 そのようにして出来上がった小説について、事実とフィクションを腑分けせよといわれても、作者としては「小説であるからには、すべてがフィクションであり すべてが事実である」としか答えようがないのです。

 とくに問い合わせが多いのは、『小説・新島八重 新島襄とその妻』にある八重とかつての夫・川崎尚之助が江戸で邂逅するという挿話です。

 これについても同じ台詞を繰り返すほかありません。ただし、今回、小生は愚かにも小説3冊のほかに新書版で『新島八重 おんなの戦い』(角川書店刊 角川0neテーマ21)というミニ評伝を出しております。これはノンフィクションですからフィクションはありません。立ち読みでページを繰ってもらえば、すぐに答えは出るはずです。

 かつて小説記述としての同個所をノンフィクションの評伝に、事実として使った無謀な書き手がいました。むろん著作権問題に発展したことは言うまでもありません。



1 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-11-27
キンドルがやってきた!

 

 

 


 10月に予約しておいたKindle Paperwhiteが今朝とどいた。

 購入したのは3Gタイプ。無線LAN環境がととのっていないので、とりあえず価格の高いほうの3Gタイプ、つまり携帯電話がつながる環境であれば、本をダウンロードできるタイプにしている。通信費はAmazonの負担だからいっさいかからない。

 電源さえいれれば、ただちにフル稼働できるというのがAmazonのウリである。さっそく電源を入れて、マニュアルにのっとってキンドルストアにゆき、とりあえず書籍を一冊買ってみた。モタつくこともなく、わけなくダウンロードが完了した。

 KindleそのものをAmazonのサイトにいってカード決済で買うと、すでにして機器そのものがユーザー登録されて届けられる仕組みになっている。だから、ワンタッチで本が購入できるカタチになっている。IDやカードナンバーの打ち込みも、あらためて実行する必要もないのである。

 ダメモトでウエブプラウザも試してみた。Wi-Fiを設定しろ…というので、ダメモトでやってみると、なんとTwitterにつながってしまった。いまのところKindleは電子本を読むだけで、これでTwitterをやるつもりは毛頭ないのだが、こんなこともできる。

 無料本もいくつかダウンロードして読んでみたが、Kindle用につくられた電子本は、レイアウトもすっきり、バックライトのあるせいか、鮮明な画面で読みやすい。

 自分でつくったPDFの電子本もUSB接続で転送して試してみた。もともとKindleを意識した画面構成になっていないので、文字が小さくて、ちょっと読みづらかった。 しかしKindleの画面を意識してさえ作成すれば、これも十分に対応できそうだ。

 問題はAmazonの電子本コンテンツがどれほど充実されるかということになるだろう。現状でははっきりいって,小生が読みたい本はほとんどない。それに価格がかなり高い。電子本といえども、ほとんど紙の本と同価格になっている。同じ価格なら、小生は躊躇することなく電子本ではなくて紙の本を買う。

 電子本の場合、製作費からみても半値位以下、3分の1値ぐらいにしてもらわねば、読み手の食指は動かない。

 ま、それはともかくとして、Kindle Paperwhite は本を読むツールとしては、かなりの優れものとみた。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-11-16
『小説・新島八重』シリーズ完結編


 
 
  筑摩書房より刊行の『小説・勇婦、最後の祈り』(11/21発売)は『小説・新島八重』シリーズのいわば完結編ですが、例によってある雑誌から、またまた著者による著書紹介を依頼されました。以下はその原稿です。

 
                    ◇◇◇◇◇◇◇
  

 数えで八八歳まで生きた新島八重はいくつもの顔をもっています。「さむらいレディー」というべき会津若松時代は、洋式銃砲という近代兵器に眼をむけていたという一点で先駆的でした。新島襄とともに暮らしたクリスチャンレディーの時代は英語を学び,聖書を学び、文字通り近代女性として颯爽と駈けぬけました。

 先に刊行した『小説・新島八重 おんなの戦い』『小説・新島八重一新島襄とその妻』』は、そういう時代を描いており、それぞれ自立した作品世界をなしています。本書『小説・新島八重 勇婦、最後の祈り』は、それら連作のフィナーレをなす作品です。

 新島襄亡き後の八重は社会活動に身を投じ、たとえば日清・日露戦争では篤志看護婦として従軍、看護は女性にふさわしい職業であり、女といえども国家に役立つことをみずから実証して見せました。晩年は当時としては珍しい女流茶道家として、女性の茶道人口拡大に力をつくしながら、終生にわたり新島襄の、会津戦争の語り部をつとめています。八重はこのように、つねに時代の最先端を歩んでいます。

 女が人間としてみとめられなかった時代にあって、良人を亡くし、独り身となった八重が、どのような思いで社会に関わり、時代をこじあけようとしていたのか。孤独な闘いに挑んだ八重、作品世界に登場する彼女の半生がそれにこたえてくれています。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-10-23
八重をたづねて、ふらりと会津へ

ふいと思い立って会津を歩いてきました。

 10月22日(月)朝5時すぎに出発、会津若松駅には9時40分に到着、およそ4時間の旅でした。
 雲一つない晴天で風もない。歩けば汗ばむほどの陽気でした。車中からみた磐梯山は中腹まで紅葉がきざしていました。会津若松の町中、とくに鶴ヶ城周辺は、まもなく紅葉まっさかりになるでしょう。

 駅前に降り立つと、『「八重の桜」を応援しています』という会津若松市のモニュメントに歓迎されてて、街あるきのスタートです。

 500円で1日乗り放題のバスのチケットを買って、左回りコースの「あかべえ」号に乗車、飯盛山、武家屋敷、鶴ヶ城、そして最後は七日町界隈を散策してきました。
 八重の桜による人気のせいでしょうか。月曜日にもかかわらず、観光スポットには観光バスでやってくる人たちがそこそこたむろしていました。

 街には「八重」をあしらった提灯やポスター、看板などであふれていました。笑ったのは土木工事中の標識看板にもキャラクターの「八重たん」が描かれていたこと。



 そんなこんなで人気で街はわきたっているのに、いぜんとしてお膝元の会津でも「八重」はあまり知られていないようです。

 たとえば飯盛山でびっくり仰天のエピソードをひとつ。
 最近は観光客相手にボランティアのガイドさんが活躍しているようです。ある老人ガイドさんの名調子に引き寄せられて、それとなく耳をすますと,どうやら「八重」をとりあげているらしい。ところが「井上八重」と聞こえてきました。聞き間違いだろうと聞き手の輪にはいると、「井上……」「井上……」と繰り返している。おもわず苦笑してしまいました。

 「やめとけ!」と言ったのに,連れが、ガイドの爺さんが話し終えるのを待って、ツカツカと歩み寄り、「井上ではなく、山本ではありませんか?」と声をかけてしまいました。「そうでした、まちがいです。山本です」ガイドさんは、笑って恐縮することしきりでした。

 爺さんガイドさんに悪気があるわけでもなく、「八重」は郷里の会津でもというか、会津だからこそ、あまり知られていない、知られてこなかった。その裏返しではないかとへんな納得のしかたをしておりました。

 会津若松はせまい町です。500円の専用フリー乗車券をうまく利用すれば,渋滞という者がないので、ウイークデーならば、1日でかなりの観光スポットを制覇できます。

 勝手知った街というわけでもありませんが、昼すぎには鶴ヶ城をみてまわり、午後はそこから神明通りから七日町あたりをぶらりと散策、午後になっても穏やかな天候、汗ばむほどの陽差しにめぐまれて、ソフトクリームをナメながら、ひたすら歩いておりました。

 若松を後にしたのは午後5時、9時過ぎにはもう自宅にたどりついておりましたから、やはり帰りも4時間そこそこでした。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-10-10
純米吟醸酒になった「八重さん」


 会津若松の末廣酒造はこのほど純米吟醸酒「八重さん」を発売した。来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」をみすえ、同志社とタイアップ、同志社のキャラクターである「八重さん」をあしらっての新商品である。

 末廣酒造のサイトには「八重さん」の特設ページがつくられたが、そこに掲載されている「八重の生涯」には、小生のエッセイがつかわれており、ひょんな奇縁でページづくりに一役買うことになった。

 純米吟醸酒「八重さん」だが、瓶タイプだけかと思っていたら、そうではなかった。ほかにもワンカップタイプとそおセット、さらには「純米吟醸 八重さん」と「末廣 白虎」のセットもあって、バラエティーに富んだ品揃えになっていて、これにはちょっと驚いた。

「八重さん」「白虎」というから、男勝りの荒ぶった辛口かと思いきや、どちらかというと爽やかなタッチで、すっきり、まろやか、口当たりのよい、まさにキャラクターの八重さんの面立ちそのものの味わいであった。

 大河ドラマを通じて、お酒と通じて、同志社周辺でも、会津でも見捨てられてきた八重について、もっと、ひろく知られてっほしいものである。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-09-12
八重はジャンヌダルクなんかではない!

 2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」が今週初めの9日にクランクインしたようである。

 これに先だって主演の綾瀬はるかは8日、京都にゆき、若王子の同志社墓地にある八重の墓参りをすませたという。かつて栗原小巻が八重を演じたときも、クランクインに先だって墓参りに行ったから、常套的な儀式になっているらしい。

  
 会津でのロケは11日から本格的にはじまり15日までつづくという。初日は八重(綾瀬はるか)、覚馬(西島秀俊)、川崎尚之助(長谷川博巳)らの絡みのシーンが撮られた。詳しくはNHKオンライン福島ニュースでとりあげられている。(http://www3.nhk.or.jp/fukushima/lnews/6054859511.html

 ちょっとひっかかるのはニュースの文面および動画リプレイのアナウンスのなかにある『「八重の桜」は幕末の会津藩に生まれ「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた新島八重の波乱の生涯』という部分である。

 どこがひっかかるかというと「幕末のジャンヌダルク」という部分である。八重をジャンヌダルクに仮託しているのだが、思わず声を立てて笑ってしまった。軽佻浮薄、有象無象のメディアならともかく、天下のNHKがなんたることか。それはないだろう……と。

 幕末のジャンヌダルク、誰が言い出したのかは知らないが、このような浅はかなキャッチを使ってはいけない。

 ジャンヌダルクと八重はまったくちがう。八重は神の啓示をうけたわけでもなく、第一にあれほど神がかりではない。宗教裁判にかけられ、火あぶりになったわけでもない。なぜジャンヌダルクなのか? 

 類似性などまったく皆無である。これではジャンヌいついても、八重についてもまったく何もわかっていないことになる。ジャンヌにも八重に対しても失礼じゃないいのかなあ。

 誰が言い出したのかは分からないが、それを何の疑念ももたずにそのま鵜呑みにして、悪のりしている。「幕末のナントカ」などと平気でいう輩は、八重について何ひとつ分かっていない輩だと言っておこう。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-08-22
『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(新潮文庫)


 例によって、ある雑誌にもとめられて書いた「自著紹介」です。(笑)
                  ◇ ◇ 
 日本の近代は砲弾が地ならしして幕あけた。
 明治元年(一八六八)の戊辰戦争、新政府軍は会津・鶴ヶ城に攻めかかった。そこで女こどもはどう生きたのか。

 足手まといになるのを懸念してある者は郊外に逃れ、恥辱を受けてはならじとある者は自刃し、そしてある者は城に入って参戦することを決意した。

 兵糧炊き、傷兵の看護、弾丸づくり、砲弾消し……。入城したおよそ六〇〇人の婦女子は裏方にまわって戦闘を支えた。だが、そんな女の仕事だけでは満足できない女丈夫がいた。山本八重、後の新島八重である。

 会津藩砲術指南役の家に生まれた八重はスペンサー銃を手にして夜襲に出撃、砲隊で率いて向かい撃った。しかし戦いに敗れ、藩家は斃れた。家屋敷を奪われだけでなく父をうしない、夫とも別れなくてはならなった。

『小説・新島八重 会津おんな戦記』は、そんな八重の若き日の戦い、愛と別離、そして新しい旅立ちを描いている。 会津戦争を高みから見おろすのではなく、あくまで八重というひとりの女性の視点、いわば「一兵卒」の目線から描ききった小説作品である。

『小説・新島八重 新島襄とその妻』は、その八重が兄の覚馬をたより会津から京都にやってきて新島襄とともに暮らした時代を描いている。

 京都にやってくるなり、八重は英語を学び、キリスト教にも接近、そして新島襄と運命的に出会って結婚、洋装洋髪のモダンレデイーとしてよみがえった。だが、それは八重にとって、また新しい戦いの幕あけでもあった。当時、キリスト教に入信すること、さらには耶蘇と後ろ指をさされる男と結婚することなど、ただならぬ勇気のいることで、周囲すべて敵にまわすにひとしかったのである。だが、八重はいっさい怯まなかった。キリスト教への根強い偏見、政府や京都府の妨害など困難をのりこえて同志社を築いた襄を支えつづけ、近代日本の幕あけを颯爽と駈けぬけたのである。

 そんな八重の生きざまには開花期の日本人女性が背負わなければならなかった文化的な軋轢があちこちにある。近代と前近代との狭間に明滅する女性ゆえの凄まじいばかりの孤独な闘い、それが本作品のライトモチーフになっている。

 もともと両作品はそれぞれ独立した作品として刊行されたものだが、対をなすものであり、文庫化にあたって人名表記を統一した。なお両作につづく第三弾として、近く『小説新島八重 美徳をもって飾となす』(仮題)が登場する予定である。

◇発売:2012.08.28



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-08-07
新島八重 おんなの戦い



 ある雑誌から「自著紹介」の原稿の執筆を依頼された。しかし自分の書いた作品を語るのは、きわめてむずかしい。他人の作品ならば,わりあい気楽に向き合える。だいたいは,良いところをとりあげれば、作業の半分はそれで終わっている。極端な話をすれば、誉めるとすれば、1あるものを5から6までひきあげて書くこもできる。ところが自分の作品はそんなことはできないから困り果てるのである。

 自著を語るのはむずかしいというよりもたいへんやりにくいのである。やりにくいのを承知しながら、書いたのが以下の稿である。
…………………………………………………………………………………………………………

『新島八重 おんなの戦い』(角川oneテーマ21)新書 角川書店

 まさに波瀾万丈というべきか。世にはまるで絵に描いたようだ、と眼をみはらされるような人生もある。新島八重もそんなひとりである。
 会津藩砲術指南役の娘に生まれた彼女は、明治元年(一八六八)の戊辰戦争で、断髪男装の出で立ちで、七連発の新式銃をとって籠城戦を戦いぬいた。女性でありながら近代兵器というべき銃砲に眼をけていた女性は彼女のはかにはない。
 戦いに敗れたあと、兄覚馬をたよって京都にやってくると、英語を学び、キリスト教にも接近、新島襄と結婚、洋装洋髪のクリスチャンレディーに生まれかわってゆく。密航青年と鉄砲娘の結びつき、それは、まさに日本の近代の幕あけであった。
 新島襄の死後は社会活動に身を転じ、日清・日露戦争のときは日赤の篤志看護婦として従軍、看護師は女性に適した仕事であることを実証してみせ、働く女性の先駆者となった。
 八重はまさに近代女性の先駆をなす存在といえるが、それゆえに近代と前近代との狭間に立って、女性ゆえの凄まじいばかりの戦いがよこたわっていた。
「女こども」とひとくくりにされ、女が人間であることをみとめられていなかった時代に、八重は自立したアクティブな女性として、果敢に颯爽とかけぬけていった。本書は当時の時代背景や、同じ会津女性で戊辰戦争の洗礼をうけた大山捨松や若松賤子の生きざまにも目配りしながら、八重の素顔に光を当てた歴史ドキュメントである。



1 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-07-15
小倉そして無法松!

久しぶりに小倉へ行ってきた。

小倉はモノ書きとして刺激的な町である。森鴎外の史跡があり、松本清張ゆかりの地で記念館もある。もう少し範囲をひろげれば火野葦平、林芙美子……。

残念ながらとんぼ返りだから、街の散策はできなかった。唯一。小倉らしさを感じたものといえば祇園太鼓、無法松である。

小倉駅のバスセンター前でリムジンバスを降りて、駅に向かう歩道橋をかけあがると、そこに「祇園太鼓の象」があった。そして無法松の象は北口にあった。




♪ 小倉生まれで玄海育ち口も荒いが気も荒い ・・・ ♪ 

映画「無法松の一生」、原作は岩下俊作の『富島松五郎傳』である。

北九州地方は数日前から、過去に例のない豪雨にみまわれ、この日も久留米や柳川は避難命令が出るほどだったというが、どういうわけか小倉は曇天で、ときおり弱い雨がくるていどだった。

宇都宮につづいて「八重を語る」旅である。小倉駅からほど近い西日本総合展示場の新館に向かったが、あまりにも広大で会場はどこなのかわからない。うろちょろしているうちに、三葉のクローバーの小旗をもつ案内のお兄さんをみつけて、やっと、ひと安心で……。

同志社キャンパスフェスタ、わが母校の広報キャンペーンというべきか。今年も全国7個所でおこなわれる。各地の校友、在校生の父母、来春の受験予備軍の高校生などがやってくる。

大学の近況報告、講演会、大学紹介、ミニ講義、入試説明、入試・学生生活相談コーナーなどがあって、学長も顔を出すから全学あげてのイベントだ。こんな年中行事があろうとはうかつにも知らなかった。

もっぱら講演会場にいたので、他のイベント会場のようすはわからないが、総勢500人が参加したという。高校生は篤志家の校友が駆け回って集めてきたという。地方へ行くほど校友会の母校への愛惜が深い。最後の交流交歓会で、いろんな校友に人達と話していて、そのことを痛感した。

八重について、大勢のまえで、お話しするのは、今年で3度目である。いつも思うのだが、「書く」ことはなんどでも書き直しができるが、「話し」はやり直しが利かない。モノ書きというよりも小生は貪欲だから、あれも、これも話そうとする。あれもこれも話したいのである。その結果、最後は時間に追われてしまう。同じ事を三度も繰り返してしまっては、自分ながらアホというほかない。

話人間でない小生は、だいたい40分ぐらい話をすれば、声のスタミナが切れてしまい、あとは、割れた声をなだめ、目を白黒させての綱渡りになるが、今回は予定時間を10分オーバーして70分でも十分持ちこたえた。これは収穫というべきだろう。

お話の旅は今年から来年にかけて、いまの段階で、あと6回も残っている。どうやら一発勝負のおもしろさを知らないままに終わってしまいそうである。ま、モノ書きなのだからそれでいいだろう。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-06-01
「八重の桜」キャスト発表! 新島襄はどこにいる?

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のキャストの一部があきらかになった。
あけてびっくり、なんとも豪華な顔ぶれである。今年の「平清盛」がいまひとつの人気なので早めに盛りあげうぃはころうという腹とよめた。先に発表されたものも含めて、整理すると次のようになる。

新島八重……………………………綾瀬はるか
山本覚馬(八重の兄)………………西島 秀俊
山本権八(八重の父)………………松重 豊
山本佐久(八重の母)………………風吹ジュン
山本うら(覚馬の妻)………………  長谷川京子
山本三郎(八重の弟)………………工藤阿須加
川崎尚之助(八重の最初の夫)……長谷川博巳
日向ユキ(八重の幼なじみ)………剛力彩芽
中野竹子(娘子隊の烈女)…………黒木メイサ
松平容保(会津藩主)………………綾野剛
照姫(会津藩の姫君)………………稲森いずみ
西郷頼母(会津藩家老)……………西田敏行
山川大蔵(会津藩家老)……………玉山鉄二
梶原平馬(会津藩家老)……………池内博之
神保修理(悲劇の藩士)……………斎藤工
佐川官兵衛(会津藩家老)…………中村獅童
秋月悌次郎(会津藩公用人)………北村有起哉

http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/cast/

ざっとみわたして、会津戦争のみを眼中においたキャストになっている。主人公の八重が会津で過ごしたのは88年の人生のうちわづか24年のみである。のこりの64年は京都ですごしているのだが、京都時代、つまり洋装洋髪のモダンレディーとなり新島襄と過ごした時代、さらには日清・日露で篤志看護婦として活躍した時代、そして女流茶道家として過ごした晩年ついては、まだ触れられていない。

このキャスティングからみると30回ぐらいは会津戦争を主眼いおき、会津で成長してゆく八重と、京都守護職についた会津藩と覚馬の活躍を交互に取り上げながら、鶴ケ城籠城戦までもっててゆくのだろう。

昨年、拙著『会津おんな戦記』と『新島襄とその妻』の文庫化(9月1日発売)をとりあげてくれた編集者は、今回の「八重の桜」が最初に報じられた昨年6月半ばの時点で、すでにして「平清盛」は時代にマッチしないから、早晩ぽしゃっていまうだろうとみていた。そこで「八重の桜」については、例年より早く盛り上げをはかるだろう…と予言していたが、けだし慧眼というべきで、はからずもその通りになっている。

現実に「平清盛」の視聴率は低迷しており、そんなおりからの豪華キャストの発表である。適材適所というよりも、ネームバリューと「顔」そろえという感じがするけれども、ドラマだから、それ以上に何も言うまい。

おそらく50回のうち半分以上はを会津を舞台にして展開されるのだろう。東北・福島復興というねらいがあるから、それは自然のなりゆきである。しかし「新島」八重を主人公にしながら、新島襄のキャストはいまだ明らかになっていない。

年末あたりに第2弾として発表されるのかもしれないが、新島……を謳いながら、新島襄がいささか軽んじられているようで、なんともはや、ちょっと首をかしげてしまうのは、ぼくだけだろうか。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2012-04-12
川崎尚之助、山本覚馬、そして大木仲益のこと

昨年の6月、2013年のNHK大河ドラマが「八重の桜」と題して、新島襄の妻である八重の生涯をとりあげると発表されたから、八重の最初の夫である「川崎尚之助」についての問い合わせが数多く、わがホームページのアドレスによせられています。

 八重を主人公にした小説作品『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)と『新島襄とその妻』(新潮社刊)、いずれも30年前の作だが、その作者であるからでしょう。

 小説作品だから人物造形はむろんフィクションですが、来歴や事跡については、当時できるかぎり調査した史実にもとづいています。だから、作品に書いたとおり、あれがすべてです…と、お答えすることにしています。

 川崎尚之助は、いまだ謎の多い人物です。今回の一連の大河騒動がきっかけで、謎の部分が史家によって明らかにされるのではないかと期待していますが、事実分からない部分が多いのです。

 川崎尚之助は但馬国出石藩の医師の子として生まれ、安政四年の秋ごろ会津にやってきています。 八重の兄山本覚馬がつくった藩校日新館の蘭学所の教授になるのですが、覚馬が自分の職俸から四人扶持を与えようとしたほどの惚れこみようでした。尚之助は山本家に投宿しるようになり、やがて八重と結婚するのですから、覚馬が江戸遊学中に知り合った人物とみていいでしょう。

 尚之助は洋書によって学理を講じ、さらに西洋式の銃法の鋳造、弾丸の製造法などの指導にあたり、覚馬とともに、会津藩の西洋式砲術の導入におおきな役割をはたしました。
 蘭学所の洋砲伝習科はやがて学校奉行からはなれ、大砲方として軍事奉行の配下になるのですが、終始、尚之助は教授人をつとめています。

 八重と尚之助の結婚は慶応元年(一八六五)ごろとみていますが、もとより当人同士の意思によるものではありません。尚之助はそのころ会津にやってきて、およそ八年たっていましたが、日新館の教授人であるものの、まだ藩士として登用されていませんでした。藩士の子弟の婚姻にはむろん藩庁の許可が必要ですから、藩籍をもたない尚之助と八重の結婚はふつうでは考えられません。

 二人の縁組みは当人たちのあずかりしらぬところで、意図的にしくまれていたと考えるほかありません。得がたい人材である尚之助を会津にとどめておくために八重を妻合わせたというのは、まったくありえない話でもないでしょう。

 とくに覚馬が京都勤番になってから、会津の銃砲について技術的にサポートできるのは、もはや尚之助しかおらず、かれの存在感がそれほど増していたことは確かです。二人の縁組には覚馬の影が見え隠れしており、二人の結婚は兄の意思でもあるとしたら、八重は一も二もなくうけいれたとみます。

 尚之助は八重とともに籠城戦を戦いぬき、開城の直前に脱出して会津を去ったとみていますが、、およそ一一年間にわたって会津の弱点というべき銃砲による戦略を、おもに技術者として支えつづけたのです。

 尚之助は蘭学のほかに、舎密術(理化学)の知識もあり、砲術の専門家であり、江戸では加藤弘之と並ぶ、新進気鋭だったというのですが、いったい、どこの誰に学んだのか。どこで覚馬と知り合ったのか。

 小説書きの小生としては、尚之助は従たる人物なので、あまり深追いはしませんが、その一点だけは長いあいだこだわりつづけていました。容易に謎は溶けだしてきませんでしたが、このほど八重をめぐる新書(8月刊)執筆(すでに脱稿)途上の資料漁りで、偶然にもいくらか糸口がみえてきました。

 接点が江戸だとすれば、覚馬が江戸にいたころの人脈に連なっているにちがいありません。覚馬が砲術修業した師は佐久間象山、江川担庵、下曾根金三郎、勝海舟、さらに『改訂増補山本覚馬傳』によると大木衷域のもとで蘭学を学んだとあります。

 ところが大木衷域なる蘭学者は存在しません。そこで大木という蘭学者を探しつづけ、衷域ではなくて、忠益あるいは仲益であるというところにたどり着きました。さらに加藤弘之の経歴を調べてみると、安政元年に蘭学者大木仲益のもとに入門したとあるのです。

 大木仲益(幼名:忠益)ならば米沢出身の蘭方医で、坪井信道に蘭学を学び、芝浜松町の坪井塾の塾頭をつとめていました。当時の兵学ブームに乗って、洋式兵法書や砲術書の翻訳の仕事も精力的にこなしております。仲益はほどなく坪井信道の女婿になり、薩摩藩に迎えられ、坪井為春と改名、島津斉彬の侍医になってゆく人物です。

 おそらく『改訂増補山本覚馬傳』の編者は忠益あるいは仲益の読みを誤認したうえ、さらに誤った漢字をあてた。よくあることです。

 尚之助はこの大木仲益のもとで同じ藩の加藤弘之とともに修業した人物とみてまちがいないでしょう。ペリーの来航以来、当時の蘭学者は砲術書などの翻訳がおもな仕事でしたから、かれも翻訳の仕事を通じて砲術を中心とした理化学を学んでいたと情勢判断します。

 そこらあたりも含めて、こんどの新書で、少し触れてあります。



2 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
Template Design: © 2007 Envy Inc.