2013-03-21
BOATRACEと花見、そしてアラセブンの同窓会

 春分の日……
 PASMOを持って都内に繰り出した。春めいた気候に誘われたというわけではない。夕刻から浜松町で大学時代のサークルの同窓が集うことになっていた。かつて京都御所の近くで学んでいたアラセブンの男女8人がひさしぶりに花の東京のどまんなかで顔を合わせるというわけだった。
 これといってアテもなく自家をとびだしたので時間がたっぷりある。浜松町を通り越して大森まで足をのばした。この日、平和島BOATRACE場ではSG総理大臣杯の優勝戦があった。だが舟券はその日の朝、すでにNET投票で買っておいた。だからもっぱらレースの観戦である。
 平和島は人であふれていた。さすがはSGレースである。競艇場や競馬場にゆくのは雑踏のなかで独りになれるからである。何もかも忘れて自分ひとりになれる空間がそこにあるのだ。
 レース場は連れがいるといけない。二人、あるいは三人いたといて、そろって舟券で好成績をあげることなど、まず、ありないからである。どうしても勝ち組と負け組とのあいだに温度差が出来てしまう。なんとも気まずくなってしまうのである。
 まずは腹ごしらえ。平和島といえば「さざなみ」の煮込み定食。だが、この日はそれをパスして、和食の惣菜をバイキング形式でチョイス、マグロのぶつ切り、赤魚鯛の塩焼き、胡瓜の酢の物……。
 優勝戦は1号艇の池田浩二が勝つに決まっている。前日からそのように信じて疑わなかった。今まで買ったこともない単勝の舟券でも買ってみるか。そうすれば少なくとも平和島にやってきたという証になるはずだ。思いついて池田浩二の単勝を100円だけ買った。

 

9Rの発売中のことだった。イベント広場が突如としてたいへんな人だかり。たむろする誰もが携帯のカメラをかまえている。何があるのか。雑踏を縫って人と人とのあいだをのぞくと、アッキーナこと南明奈の笑顔がちらと見えた。さすがSGならではのゲスト。
 だいたい最終日は荒れる。荒れることになっている。9Rは5号艇、10Rは6号艇、外枠になったがゆえにノーマークの艇が1マークでするすると抜けだして、あれよあれよの逃走劇。ともに2万舟券である。ひえーっ、6号艇が来るのかよ! 後ろのオジさんが悲鳴をあげていた。
 万舟が出るということは、大部分のファンがにがっぽり巻き上げられた証左である。メインのまえに荒れると、ファンは総じて平常心をうしない、取り返そうなどと気色ばんで穴狙いに走る。だが、こういう日は皮肉なもので逆にメインは堅くおさまるのが常なのだ。
 舟券を買わない小生は11Rが終わったところで引き揚げ、ファイナルは観ないでレース場を後にした。大森駅までのシャトルバスのなか、すぐ後ろの座席で舟券談義! 「今日一日で5万ほど負けた」「おれは初日からずっと来てるが、ぜんぶで15万円は負けたな」負けたのを自慢しあってどうするのだ。あっけらかんといているから、まあ、いいとするか。
 浜松町にもどると、まだ1時間ほど余裕があった。
 増上寺の桜はどんなぐあいだろう。時間つぶしに足をのばした。桜はちらほら、見物人もとらほら。全体的に観て四分咲きといったところか。



 境内の一角に人の輪ができている。猿回しとはいまどきめずらしい。相棒のサルに語りかけるオヤジの威勢のよい声だけが構内にひびきわたっていた。



 ようやく夕暮れ……。
 そぞろ歩きで浜松町の貿易センタービルにもどる。ちょうど集合時間の10分前、エレベーターホールにゆこうとすると、遠くに見慣れた顔、向こうも気づいたらしい。笑顔で手を振っていた。
 半日もまわり道、ようやく目的地にたどりついた。
 
 

 
 
 



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2013-03-10
真説・池田屋事変

 京都の庶民の側からこの池田屋事変をみると、なんともやは無粋な出来事というほかなかった。この日は祇園祭の宵宮にあたっていた。事変は京都市民の最大のたのしみをぶちこわしたのである。
 当時、尊攘激派の志士たちは祇園、三条、木屋町界隈、下河原あたりの茶屋や町屋に潜伏していた。かれらは御所に火を放ち、混乱に乗じて松平容保らを暗殺し、天皇を奪おうともくろんでいた。
 とてつもない、その陰謀は、志士たちの連絡係をつとめていた古高俊太郎の捕縛によって発覚した。古高は四条小橋付近に店をかまえ商人に化けていたが、武器・火薬をあつめているのがきっかけて発覚してしまったのである。
 古高がとっつかまってしまったので、志士たちは、その善後策をどうするか相談するために池田屋に集結していたところを襲われたのである。
 志士たちは相当泡を食っていたものと推察される。宵宮の雑踏すら念頭になく、迂闊というほかない。しかし、これを急襲した新選組は実に用意周到で、この祭りを最大限に利用したのである。
 新選組の隊士たちは、何食わぬ顔の平装で壬生の屯所を出発し、目立たぬように数人ずつに分かれて町にはいり、四条の町会所に集結して武装した。かれらは京都守護職預かりという立場ゆえに、京都の街の自治組織を自由に利用できる立場にあったのである。
 新選組の隊士は二手に分かれて池田屋に切り込んだが、総勢にしてわずか三〇数人にすぎなかった。
 だが、池田屋の周囲を守護職の会津藩、京都所司代、一橋、彦根などからくりだしたおよそ三千の藩兵たちが、取り囲んでいた。三条から四条を、武装した兵たちが幾重にも包囲しており、志士たちは袋のネズミだったのである。
 まるで市街戦というべきで、志士たちは逃げおおせることはできなかった。テレビドラマなどでは新選組の活躍なかりが目立っているが、実際は幕府側が総力をあげた大捕物だったのである。
 むろん山本覚馬も出陣している。そして翌朝、京都にのぼってきていた佐久間象山のもとにおもむき、さっそく、その顛末を報告しているのである。



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