2011-05-20
結果が怖いから、検査してないって? ちょっと待ってんか




今朝の「読売新聞」埼玉版をみて、びっくり仰天、あ然としました。

 福島原発から200㎞もはなれている埼玉は放射性物質の汚染される可能性はきわめて低いといわれ、そういうみかたはは妥当性があるものとおもってきましたが、どうやらそうではないようです。

 水と農産物の放射能汚染が深く静かに潜行しているようで、気がついたら知らぬは県民ばかり……という事態になりそうな気配です。

 事実、4月の上旬に東飯能と熊谷の牧草地で高濃度の放射性物質が検出されており、安全圏ではないことが明らかになっております。

 あれ、あれ、ちょっと待ってチョウダイよ……と仰天したのは、県は農産物について放射性物質の検査を放擲してしまっているという事実です。検査機関の手がまわらないという現実もあるようですが、そのまえに、まったくハナから検査する気がないようです。

 とりあえず量的に多い品種について検査をしようというわけで、検査をおこなったのはハウス栽培のほうれん草のみ、それで埼玉の農産物は基準値以下などといっているのですから、恐れ入りやのなんとやら……です。

 ハウスものが基準値以下なのはあたりまえの話。おどろいたことに露地ものの農産物についてはいっさい検査をやっていません。高濃度の数値が出るのが怖いからだというのですから、あきれ果てるじゃありませんか。

 今後も検査をやるつもりはないようです。県はビビッているのです。もしダメだということになれば補償問題もからんでヤヤコシイことになるので、触らぬ神に祟りなし……を決めこむ腹づもりのようです。いかにも、小心者のお役人の考えそうなことです。

 県民の健康をまもるという気など毛頭ありません。農協と農家に圧力をかけられて腰砕けになっているようです。なにもやらないことでもって、国と東電、農家の擁護にまわり、ひいては我が身の保身に走ってしまったのです。職務怠慢じゃないの。給料返せ…と、

 だから埼玉の野菜はアブナイのです。安全ではありません。埼玉の農産物でわすれえてゃならないのは「茶」です。「茶」といえば、先に神奈川で高濃度の放射性物質が検出されて大騒ぎになりましたが、神奈川がダメなら、埼玉が無事であるはずがありません。

 全国的に有名な狭山茶ですが、むろん県は放射性物質の検査をしていません。これも結果が怖いからやらないのです。検査をしていなから安全だという。それって犯罪的じゃないのかなあ。お茶はまちがいなくアブナイのです。

 もっともわが家は、もともと狭山茶の本場に住みながら、狭山茶を飲んでいません。(笑)なぜか奈良の農家からの茶をとりよせているのです。「アホちゃうか。そちらは狭山茶があるのに、どうして?」と農家の人に不思議がられているしまつです。

 ところで放射性物質、国内法的にも国際法的にも、一般人の許容範囲は年間1ミリシーベルト以内です。これでも安全が化学的に保証されているわけではありません。それ以上にすると原子力産業が立ちゆかなくなるから、妥協の産物としてきめられた数値なのです。

 しかし、まあ、放射能が悪さをするのは20年~30年後ですから、高齢のぼくらには関係のない話になります。狭山茶を飲み、東北や関東圏の野菜、肉類、三陸の魚をどんどん食ってもいいのです。そしておおいに被爆して、放射能は墓場にもってゆけばよろしい。

 ところが将来あるこどもはあきまへん。東北はもちろん関東圏で生産される食品を喰うてはあかんのです。喰うたもの…からだけでなく、肺で吸ったもの、触ったもの、浴びたもの、足し算、かけ算で合わせ技一本、そしてオダブツとなります。

 放射性物質の問題は松本市市長の菅谷昭さんがおっしゃるように、つねに最悪の事態を想定して、あの手この手で対策を講じておかなければならない…という話、ますます説得力が出てくるようです。

 とにかく、まだまだ突っ込みが足りませんが、今朝の読売新聞(埼玉版)の勇気に、まずは拍手喝采をおくりたいと思います。昨今はファッショさながらの時世になり、東電、原発に批判的な言動をとれば、ただちに俳優やタレント、歌手、コメンテーターなどすべてテレビやラジオの番組から降板させられ、学者やジャーナリストも村八分にされるようですから、よくぞ、ここまで踏み込んでくれたものです。

 そんなわけで、朝っぱらから、「なんでやねん」と、後手後手にまわっている県のありようにあきれ、けれども、後手後手にまわっているのは国もしかりだから、この問題はつまるところ自己責任で対処するほかないのかなあ……と、ひとりごちておりました。



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2011-05-17
吉村昭『三陸海岸大津波』を読む!



「 津波は自然現象である。ということは、今後も反復されることを意味している。
 海底地震が頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大被害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていいい。津波は今後も三陸海岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」

 吉村昭著『三陸海岸大津波』(文春文庫 2004年3月刊 460円)の一節である。同作はもともと『海の壁ー三陸沿岸大津波』として中央公論社から1970年7月に刊行されている。 1984年に中公文庫となって、読み継がれ、さらに2004年には文春文庫となって復活した。今回の東日本大震災で、作者の慧眼におどろき、再認識させれれるところがおおくあった。

 東日本大震災をみるに、はからずも著者の予感どうりになってしまったというほかない。三陸海岸を襲った津波は過去400年のうち、大小あわせて40あまりもあるという。そのなかで大津波として記録されているのは明治9年(1896年)と昭和8年(1933年)のものである。

 著者はこの二つの大津波をとりあげている。みずから三陸海岸をあるき、津波の体験者をたずね、直接話を聞いて「記録すること」に徹している。虚飾を廃して、圧倒的な事実の積み重ねによって「大津波」の凄まじさを浮き彫りにしている。

 明治9年の大津波は死者26,360人、流失家屋9,879戸。最も被害を受けたのは岩手県であり、被害の規模からみれば、今回の東日本大震災と類似点がおおい。

 なかでも田老町は激甚をきわめ、23メートルをこえる津波で一戸のこらず流失した。さらに同町は昭和8年のときも村ごと津波にのみこまれてしまったのである。

 津波の猛威について、著者は体験者の記録を整理して明らかにしている。経験者ならではの表現ゆえに、その恐怖はそくそくと伝わってくる。なかでもリアリティにみちているのが、小学校生徒たちの作文である。そのひとつをあげておこう。

「……
 表に出て下の方を見下しますと、あっちこっちにごろごろと沢山の死体がありました。布団を着たまま死んでいる人もあれば、裸になって死んでいる人もありました。
 お昼ごろに、叔父さん達がもどって来ましたので、
「何人見付けたべえ」
 と聞いたら、二人といった。だれとだれかはわからないので又聞いた。すると叔父さんは、泣きながらお父さんとおじいさんといって涙を流しました。
 私の眼からも涙が流れました。母さんや静子はどこにいるのだろうと思うと悲しくなって、ただ大声で泣きました。(中略)
 だんだん日がたって、何時の間にか岡に死体が見えなくなりました。私が、いつもの口ぐせに、
「叔父さん、お母さんたちは見つからないの」
 と聞くたびに、叔父さんは目に涙をためて、
「お母さん達は、たしか海に行ったろう」
 と言うのでした。
 私は死体が海から上がったという事を聞くたびに胸がどきどきします。私は、一人であきらめようと思っても、どうしてもあきらめる事は出来ません。三度三度の食事にも、お父さんお母さんのことが思い出されて涙が出てきます。
 町を通るたびに、家の跡に来ると何だかおっかないような気がします。近所の人々は。「アイちゃん、何してお父さんをひっぱって馳せないよう(どうして無理にもお父さんをひっぱって走らなかったんだよう)」
 といって、眼から出てくる涙を袖でふきながら、私をなぐさめてくださいます。
 私は、ほんとに独りぼっちの児になったのです。」(「津波」 尋六 牧野アイ)

 悲惨な状況と当時、尋常6年だった少女の深い悲しみが胸に迫ってくる。ぼくが大津波を畏怖するのは、死者や行方知れずの人たちの多さではない。ある日とつぜん、父や母を奪い去られ、平穏な日常からまるで生き地獄のような奈落に突き落とされたという、ひとりひとりの具体的な現実そのものなのである。

 田老町は今回の震災でも死者129名、行方不明71名、多数の家屋を流失した。過去2回の大津波の教訓から同町は「防災宣言の町」として生まれ変わり、松の防潮林、「万里の長城」と称される総延長2.4km、高さ10mの日本一の防潮堤をつくり、松の防潮林をととのえた。町の避難路はすべて高台に向かい、「隅切り」と呼ばれる十字路の見通しを確保するなど、防災の工夫を二重三重にこらしていた。

 だが、今回の大津波は、そのシーンはテレビでも放映されたように、自慢の防潮堤を軽々とこえてしまったのである。

 津波の高さを正確に測るのはむずかしい……と著者の吉村昭は書いている。たとえば明治29年の大津波だが、学者の想定では10~24メートル、ところが著者が集めた証言のなかには50メートルに達していた。

 今回の大津波はどれほどの高さだったのか。それはこれから検証されるのだろうが、20~50メートルの規模ともなれば、もはや海辺には人間は住めないだろう。逆にいえばいままで人が住んではならないところに家を建てて暮らしていたということになる。

 復興の地図ははそういう事実をふまえたうえで描かねばならないのだろう。ただ何も考えずに、被害地をもとのすがたを復元するのだったら、20~50メートルもの防潮堤をつくらねばならないことになる。これはまさにバベルの塔というべきで、現実的に不可能ではないだろうか。 読了後、ふと、そんなことを考えていた。
 



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