2009-12-30
誰のいない海!

 海が観たい!

 だいたい年末の29日ごろになると、家人はそんなことを言い出す。海をみると元気が出てくる……と。そういわれてぼく自身も海がみたくなるからなんとも摩訶不思議なものである。

 かくして、早朝からクルマを走らせることになる。今年も昨日、29日の朝8時に出発となった。さいわい天気もよさそうである。ドライブにはもってこいの日和だった。

 16号を南下して福生、横田基地のヨコをすりぬけ、八王子、橋本、相模原、厚木、平塚……。まったく渋滞もなく、10時まえには、はやくも平塚の海に突き当たっていた。

 いつものように辻堂海浜公園の駐車場にクルマをとめた。烏帽子岩から江ノ島までがみわたせる湘南の海、風もなく穏やかに凪いでいた。

 誰もいない海……。そんな歌の文句もあったが、この季節、ほとんど人気はない。まるで烏の群れのように海辺を彩るサーファーの姿もほとんど見あたらなかった。

「海……というのは、なんどみても不思議……」という家人は、それこそ不思議な人種だなあ……と思いながら、半時あまりも砂浜をあちこちあるきまわっている不可思議な自分がそこにいた。

 海沿いの道路をいつものように江ノ島へ。弁天さまの参道はこの季節でもにぎわっていた。神社はすでにして初詣の参拝者をむかえる準備もととのっているようだった。

 昼食は今回にかぎり江ノ島ではなく茅ヶ崎までもどって、網元ナントカという店をえらんだのだが、開店前の店先にはすでに行列ができていた。かろうじて駐車場の空きをひとつみつけてもぐりこむというありさまだった。

 帰途、湘南大橋をわたりながら、「あと4日か……」と思った。新春の2日と3日、その界隈は箱根駅伝の舞台になるのである。2日の往路は第3区、3日の復路は第8区である。

 往路の3区・8区(21.5㎞)ともに海岸線を走がゆえに、海風の影響をうけやすくスタミナ勝負の区間となる。とくに往路の3区は前半のポイント区間として、各チームとも最近はエース級の選手を配してくる。

 年末に海を観て元気をもらい、明けて新年には箱根ランナーから元気をもらう。そのようにして一年は暮れてゆき、そして、また新しいつぎの年が明けてゆく……。いつも変わらぬ年の瀬である。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-12-02
ああ、事業仕分け!

 流行語大賞のトップテンにはいった「事業仕分け」で、選手強化費が削られたとして、11人の五輪メダリストが東京都内のホテル記者会見をおこない、怒りをこめてきびしい財政事情をうったえた。

 記事をみて、ちょっとまえにノーベル賞受賞者や国立大学長先生たちがうちそろって、科学や学問の研究事業にかかわる「事業仕分け」へ異議を申し立てた。雁首をそろえてむずかしい顔をしている写真を思いだした。

 あのときは、なんともはや違和感をおぼえた。みっともないったらありゃしない。いったいナニサマだとおもっているの。エラそうに……。威張るんじゃないよ……と。

 第一に、今回の「事業仕分け」というものが何のためにおこなわれ、それが、なぜ必要なのか……という根本のところが、何一つわかっていない。そして、それが、国民からも注目され、そこそこ評価されているという空気も読めていない。

 政権交代なきままに、旧政権のながねんにわたる数かずの失政に、国民は蹂躙されてきた。天下りのよる政官癒着、カネの問題……、数え上げればかさに「浜の真砂」ほどあるだろう。

 新政権をもろに支持するわけではないが、ともかく旧政権の「官僚への丸投げ政治」をみなおして、国民の側にひきよせようとしている。初めての試みだから、いまはまだ手探り状態で、いろいろ問題があるのはしかたがない。だが国民は多くはその努力は評価し、期待も高まっているのは事実だろう。

 お役人の天下りのために、ペーパー・カンパニもどきの団体、名まえだけの公益事業団体が「浜の真砂」にようにつくられ、税金のながれが幾重にも錯綜し、なにがないやらわからぬように包みかくされ、あげくに利権をうみだして、多額の税金が食い物にされてきた。

 だから、それをきっちり精査して、政治と行政の過去の問題点をすべて国民の目のまえに明示する。「事業仕分け」というのは、そういう手続きであろう。だから、新政権の予算編成前に先だっておこなわれているのである。

 しかも「事業仕分け」そのものは、ある意味では残念というべきか。何の法的拘束力もないのである。強権を発動して、予算を削減しているのではない。いわば「検証」行為なのである。

 あのお偉い学者や大学のセンセがたはそこのところが、何もわかっていない。ただただ雁首そろえて、横一列にならび、ひたすら、自分の理屈をならべたてているだけ、ようするに自分たちだけよければいいという理屈である。いかにも視野がせまく、「旧権力の代弁者」になりはてている。がっかりさせられたのである。

 学問もスポーツもそして芸術もしかりである。その存在意義を説くのはきわて容易である。あの偉い先生も、そして五輪メダリストたちも、ある意味では、教科書的に総論をクソ真面目にのべたにすぎない。

 そのていどのことは事業仕分け委員の人はもちろん、国民にしても十分に理解していることなのだ。

 問題は錯綜した組織のありかたによって税金が消えていまい、先生がたの学問研究やエリート選手の強化育成に十分ゼニがまわらないという制度上のひずみにある。今回の「事業仕分け」は、そこのところにメスを入れようとしているのである。

 そこのところをきっちり解決しなければ、先生方がとうとうとのべた高邁な学問のゆくえも、メダリストたちのいうスポーツの振興も、お先真っ暗になってしまうのである。

 メダリストたちは、まあ、微笑ましといえるが、ノーベル賞をもらったほどの大先生たちの、あの大マジでの異議申し立て、知性の権化にしては、あまりにもオソマツというほかない。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-11-06
テニス・エルボー




 人間というものはケッタイなものでんなあ。自分ながらつくづく呆れてしまいますヮ。

 性懲りもなくまたテニスをはじめてしまいました。2年まえの暮れにふくらはぎの筋肉が断裂して、およそ1カ月も苦しんだのに……です。喉もとすぎれば、ナンとやら……といいますが、まさにそれです。

 しかも、今回はちゃんとしたテニススクールに通いはじめたというからあきれるじゃありませんか。週1回、埼玉・西武球場のとなりにある西武ドームテニススクールに足を運んでいます。クルマなら自家からわずか15分のところにあります。

 それにしても……。西武球場前の界隈、いまやゲームのないときは猫の子一匹とおらない。狭山不動尊や山口観音の門前にある商店街もシャッター通りになっています。なんともさびれた街になってしまいました。かつてはユネスコ村なんかもあって、けっこうにぎわっていましたが……。

 2年ものあいだ物置に放り込んだままになっているラケットは、むろん、そのままでは使い物になりませんでした。張り替え屋さん、どこかにないかいな。まずはハローページをめくって張り替え屋さん探しからはじまりました。

 ようやくみつけたストリングスの専門店、気のよさそうなオヤジさん、客の年齢をよみとっての提案でしょう。テンションを45ポンドにせよ……というではありませんか。いままでは55ポンドだったので、しばし歯切れわるく逡巡していると「そんなもんでいいんですよ」と……。せっかくのアドバイスだからとおっしゃるとおりにしました。(これが、のちにとんでもないことになる)

 とりあえず基礎からやりまおす。入門クラスからスタートすることにしましたが、入門クラスとはいえズブの初心者なんてひとりもいません。みんな、そこそこやっている人たちばかりなのです。コーチは若くて明るい気質のおニイちゃん……。

 フォア、バックのストローク練習から始まり、ボレー、サーブ練習、最後はダブルスの試合……。初日にこれだけこなすのですから、とても「入門」なんかではありません。

 ストローク練習しているうちに右手の肘から下あたりの筋肉が痛みはじめました。インパクトの瞬間にラケットを握ると鋭い痛みが走ります。ようするに「テニス・エルボー」、テニス肘といわれる病ににかかってしまったというわけです。

 コーチに「腕が痛い」というと、彼はどこかからラケットをもってきて「それじゃ、これでやってみてください」

 言われたとおりに、そのラケットをつかってみると、なるほどインパクトの衝撃で、その瞬間だけ痛みがあるものの振り抜くことができる。軽くボールに合わせただけで、スイートスポットにさえ当たればちゃんと相手コートにとんでゆくのです。

 コーチが渡してくれたのはウイルソンの新しい厚ラケというやつでした。ぼくが使っているものより軽くて、ボールの弾みがはるかにいいのです。不思議なことにボレーが、サーブがビシバシ決まるのです。すっかり腕が痛いのも忘れてしまいました。

 どうやら、ストリングスのオヤジさんの口車にのって、ガットを緩くした分だけ、衝撃が腕のほうにきて、それで痛みはじめたというのが真相のようです。昔はそれでも何ともなかったでしょうが、寄る年波で躰にも微妙な変化があらわれていることの証しというものでしょう。 人間の躰というのはなんとも微妙なものです。

 年齢とともに用具もちゃんと年相応にすべきだという警鐘とうけとめて、思いきってラケットを新調することにしました。新しいパートナーはWILSON(ウィルソン) K ONE FX 122 というヤツです。

 重量はなんと245グラム、ガットを張っても270グラムぐらいです。ちなみに前につかっていたラケットを計量してみると390グラムもありました。なんと3分の1も軽くなっているのです。 テニスの用具も技術革新がすすんでいるようで、遅れているのは己であることを思い知りました。

 とにかくウデは怪しげなのだから、せめてラケットぐらいは一流でなくては……という思いで買ったのだから、それなりのシゴトをしてもらわなくてはな……と、新参のウイルソンに言い聞かせております。はい。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-10-16
岩魚づくし!




 滋賀県多賀町……。
 滋賀県でもっとも古く由緒ある神社、多賀大社でしられ、鈴鹿山脈の麓、山あいのにあるちいさな町というイメージである。

 暮れなずむ時刻……。
 迎えにやっえきたマイクロバスは曲がりくねった山ぞいの道路をかなりのスピードでどんどんのぼっていった。10分、20分……。最初はあちこちに工場もあったが、やがて森林のあいだにさしかかるころ、あたりは闇につつまれてしまった。

 道路の左右におりかさなっていた集落をすぎるとあちこちに散在していた人家の灯りもなくなった。闇また闇のなかをマイクロバスのヘッドライトはきりゆらくようにどんどん突っ走る。いったいどこえ連れて行ってくれるのやら。不安になってきたのか同乗者のだれもが口をとざしてしまった。

 黙ってしまった乗客にかわって運転手がボソボソと話しはめた。自分はもともとは大工であったこと。50歳のときに大工をやめて、店をはじめたのだが、自分ひとりで周囲の山から間伐材をあつめてきて建築した。……

 岩魚料理の専門店で、養殖から料理にいたるまですべてひとりでやっている。岩魚の塩焼、刺身、甘露煮、南蛮漬、天ぷら、ムニエル、いわな寿司のセット、冬場になると鈴鹿山脈で獲れる猪鹿ちゃんこ鍋、ぼたん鍋など……。

 舗装道路がとぎれたのか、いつしかバスは砂利道を走っている。道なき道ではあるまいが、どうやら林道のような道にさしかかっているらしい。凹凸があるらしく、やたらと細かい上下動にほんろうされながら、店主の話を聞いているうちに、マイクロバスはログハウスのような家屋のそばで停まった。

 民家風の建物のわきをえぐるように渓流が走り、薄闇のむこうに小さな滝があるのがわかる。暗くてよくみえなかったが木造りの生け簀には岩魚がいるらしい。そこをぬけると納涼床のようなものがある。能舞台もどきに立派じゃないの……というと、「わたしが造った」と店主はまた自慢した。

 細長い座敷にはすでに膳がしつらえられていた。岩魚料理のコースである。岩魚の甘露煮がどかんとまえにあり、お通しのつもりか、ワカサギの飴炊き、岩魚の刺身は一匹分が一人前にになっているらしかった。それにしてもよほど、どでかいヤツだったのか。いくら食ってもなくならないほどのボリュームであったが、この刺身は適当に油がのっていて、なかなかのものであった。

 さらに……、下味をつけた鹿の肉と地鶏がテーブルにならんでいる。網焼きにして、ニンニク仕立ての味噌タレで食べるのだと……。

 ビールで乾杯してやがて、みんなが焼酎のお湯割りをやりだすころ、ふと後ろをみると店主が手網で生け簀から、なにやらすくっている。よくみると鰻ではないか。鰻をどうするのかと思っていると、やがて店主は大きな皿をもってやってきて、「はい、うなぎのバーベキューです」という。

 皿のなかで鰻はまだ動いていた。店主は蒲焼にするのとおなじように捌いて、一口サイズに細かく切りそろえてきたのだが、鰻は切られてもまだヒクヒク動いているのである。網焼きとおなじように小さな炉でやいて喰え……というのだが、動いている鰻を箸ではさんだのは初めてだった。

 あとは岩魚の梅酢シメ、さらには岩魚のフライ……。岩魚づくしもここまでくると立派なものである。

 だが……。
 もう、しばらく、岩魚は食いたくないな……。帰りも店主は同じマイクロバスでホテルまでおくってくれたが、ふとそんなふうに口のなかでつぶやいていた。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-09-21
赤い花なら曼珠沙華!


いままさに曼珠沙華の季節である。

 今朝も463号バイパスは秩父方面ゆきのクルマで朝から大渋滞していたが、そのうち多くはおそらく曼珠沙華の名所としてしられる日高市の巾着田にも立ち寄ることだろうとおもいながらみていた。

 曼珠沙華……というと、つい「赤い花なら……」という歌が口を吐いて出る。

 赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
 阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
 濡れて泣いてる じゃがたらお春……


 長崎物語(梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲)の一節である。昭和14年の流行歌だという。ぼくが生まれるより昔の歌なのに、なぜぼくは覚えているのか? それは戦後になってはじまったNHKの「のど自慢」で唄われ、爆発的なヒットのなったせいだろう。だから幼いころのぼくの耳に、ごく自然にはいっていたのだろうとおもう。

 ところで「長崎物語」というのは、なんとも哀しい歌である。

 歌の文句に出てくる「お春」はイタリア人の父と日本人の母のあいだに生まれた混血児。いまからおよそ400年ぐらいまえ、江戸時代の始めのころの話である。お春は曼珠沙華で彩られた阿蘭陀坂の一角に「お春姫」と呼ばれるほどの裕福に暮らしていた。

 ところが、15歳になったころ、江戸幕府のキリシタン弾圧、鎖国令によって、国外追放となり、ジャガタラ(現在のインドネシア・ジャカルタ)に流され、過酷な運命に翻弄される。

 外国人の愛人になり、あげくには遊女に身をやつし、日本に帰りたくても帰れないわが身の不幸を嘆きながら、はるか海をへだてた異郷で72歳の人生をおえるのである。

 彼岸花、またの名を曼珠沙華……。葉はなく、地中からすくっと生えた一本の茎の先端で深紅の花が咲く。いかにも鮮やかな紅だが、どこかうら寂しく眼にうつるのはなぜか。

 ぼくたちは昔から「手腐り花」だと教えられ、絶対に手に触れてはならぬと教えられてきた。事実、毒性のある植物で、食すれば吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたるという。

 田んぼの畦や墓地におおいのは理由がある。田んぼを荒らすモグラや野ネズミ、あるいや虫除けに、この彼岸花がつかわれた。墓地におおいのは、昔は土葬だったからで、埋葬した死体を動物が掘り起こさないように、あえて彼岸花を植えたというのである。

 時代が移り、彼岸花のそんなマイナスイメージは、すっかりなくなったようだが、ぼくがいまひとつ馴染めないのは、ひとつには死人花とか地獄花とかおしえられてきたこと、さらには「長崎物語」の哀しいイメージのせいだろう。

 彼岸花には「赤」だけでなく、「白」さらには「黄」のタイプもあるようだ。今朝たまたまとおりかかった丘陵地の土手で「黄色」の彼岸花をみつけた。黄色い彼岸花はショウキズイセン(鍾馗水仙)とよばれる変種だという。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-08-25
ベルリン世界陸上 女子マラソン観戦記

 ベルリン世界陸上の掉尾を彩る女子マラソン、テレビでとっくりと観戦した。

 世界陸上のマラソンコースは、通常の「ベルリンマラソン」のコースとちがい、まさにベルリンの名所めぐりというべき行程だという話だったが、ブランデンブルク門をスタートしてゴールする周回コース。レースのゆくえとは別に、とっくり市街観光も堪能させてもらった。

 真夏のマラソンゆえのことだろう。フタをあけてみると女子もまた前日の男子とおなじように世界のトップクラスは出てこなかった。みんな秋からはじまる高額の賞金がかかるマラソンレースをねらっていて、真夏でシンドイだけの世界選手権などには出てこないのである。

 ラドクリフもヌデレバもディタもミキテンコもいなかった。さらに日本では実力、実績ナンバーワンの渋井陽子がケガで欠場してしまった。

 直前になって主力不在で大混戦の様相、このような弱メンでメダルに手が届かなくては日本の女子マラソンにもはや前途はないとみて、今回のレースで将来を占いながら、観戦していた。

 路面温度は38度をこえるという暑さのなかでレースははじまったが、予想したとおりスピード勝負のレースにはならなかった。5㎞のラップが17:40というから、これでは2時間30分をこえてしまう。超スローペースになったのはひとえに中心不在のせいである。

 トップ集団は30人ぐらいの大集団でたんたんとすすむ。日本の4選手はみんなトップ集団からこぼれおちることもなかった。だが、同じようにトップ集団にはいっていても、尾崎好美、加納由理の2人と赤羽有紀子、藤永佳子の二人では、はっきりと明暗が分かれた。

 尾崎と加納は前半、集団のどまんなかにはいって、外国人選手にくらべれば背の低いせいもあるが、ほとんどどこにいるのかもわからない存在だった。ムダなエネルギーを使わないようにして、力を温存していたのである。

 赤羽と藤永は出入りの激しいレースぶりだった。藤永は途中でひとたびトップ集団から置いてゆかれそうになった。とくに前半はトップのペースがあがると、じりじりと遅れて集団からこぼれ落ちそうになる。位置どり、反応のしかたが悪いのが眼についた。

 意外だったのは赤羽有紀子である。日本人のなかではトップランクの期待がかけられていたが、結果的にはまったく躰がうごいていなかった。(後に知るところでは20㎞あたりから脱水症状にさいなまれていたらしい)

 5㎞までは集団の向かって左側(歩道より)の前方につけていて、いい位置どりだなあ……と思っていたが、10㎞すぎからは、集団の後方にさがってしまい、先頭がペースアップするだびに、じりじりと遅れ出す。集団の動きにまったく反応できない。動きが鈍いというほかなかった。離されると追っかけて、また集団にもどるのだが、しばらくするとまた離される。そういうことを繰り返していてはエネルギーの消耗がはげしくなるのはあたりまえのことである。

 藤永と赤羽の走りは、集団のなかでひたすらエネルギーの温存につとめている尾崎と加納と好対照をなしていた。

 かくして期待の赤羽は30㎞手前で、湯だったようになり、全身から力がぬけてしまった状態、まるで夢遊病者のように躰が浮きはじめてみるみるうちに失速、彼女のレースはそこでおわってしまった。

 潜在能力はあるのだがマラソン経験も未熟で、初の国際マラソンである。渋井の欠場で期待を一身に背負ったゆえの気負いもあったのだろう。さらに8月には軽度だが足を痛めていたとも聞く。

 さらに暑さのせいもあったかもしれない。惨敗の原因はわからないが、マラソンというのはデリケートな競技だなあ……とあらてめて思ってしまった。

 勝負どころでは藤永も遅れ、最後に中国2人、エチオピア、日本2人がのこり、尾崎が果敢に仕掛けて、最後は中国、エチオピア、日本のメダル争い。40㎞手前では中国の期待の新鋭・白雪と尾崎が抜けだしてマッチレースとなった。

 勝負はブランデングブルグ門を目前にしたのこり2㎞あたりで決した。中国の天才ランナー・白雪がスパートをかけると、尾崎にはもう追う余力はなかった。最後の勝負どころでは20歳の若さがモノをいったというべきか。

 敗れはしたが尾崎好美は大健闘したといっていいだろう。持ちタイムからみて日本人4人のなかでは上位にきて当然だが、地味で目立たない存在だっただけに、メディアはまったく注目していなかった。彼女の快走は、そういうメディアのありかたへの反逆というものであろう。

 テレビを観ていて、ちょっとおもしろい光景だとおもったのは、30㎞すぎだったとおもうが、尾崎が給水所でスペシャルドリンクを取り損ねた。

 そのときである。給水所にいた男がドリンクボトルをもって猛ダッシュ、たちまち追いついて並走、かれは尾崎に追いついて手渡したのである。かくして尾崎は無事に給水することが出きたのだが、尾崎にドリンクをとどけたのが、男子3000障害に出場した岩水嘉孝だったという。女子であるとはいえレース中のマラソンランナーに追いつくのは至難の業である。

 試合を終えた日本人選手はマラソンのサポートに回っていたらしい。岩永は予選で落選したが尾崎の日本人初のメダル獲りに、みごと貢献したといういみで、讃えられていいだろう。さすがは箱根(順天堂大時代は箱根駅伝のエースだった)で名を馳せたランナーだけのことある。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-06-24
ほんとうの女優はいなくなった!


 虫明亜呂無にスポーツや競馬をかたらせれば右に出るものがいない。スポーツ小説をあつめたかれの「シャガールの馬」は出色の作品集である。

 虫明亜呂無は他界してからすでに18年になるが、このほど『女の足指と電話機 回想の女優たち』(清流出版刊)というエッセイ集が出た。

 日本だけでなく、ひろく世界に目をむけ、伝説の女性たちを軸にして文学や映画、演劇、音楽をかたる。おもしろい。ロマンチシズムただよう文章にも独特の味わいがある。読みごたえのあるエッセイ集になっている。

 ぼくは虫明亜呂無といえば競馬にかんするエッセイか、あるいは単行本になっているスポーツ小説しか読んでいない。これほど幅ひろいジャンルに目配りしたエッセイがあろうとはまるで知らなかった。

 とくに女性にかんする洞察眼は冴えわたっている。いちばんおもしろかったのは現在の日本には、ほんとうの「女優」はいないという。独特の女優論であろうか。

 近年、女優のスケールが小さくなったのは、彼女たちが家庭に安定をもとめたからだと、著者はいうのである。それにともなって彼女たちの美貌も消滅したとまで言いきっている。

 そんな彼女たちはもはや女優として失格である。だから庶民の憧れの対象ではなくなってしまった。そのあたりについて著者はつぎのように書いている。(「回想の女優たち」)

「戦前の女優のえらさは、彼女たちが断固としてアウトサイダーをつらぬいたことである。美貌に生まれついたために、社会の常識に背を向けて恋し、生きて、演技をした。彼女たちは自分の家庭のこと、恋人のこと、子供のことなどをかたくなに語らなかった。語ったときには、女優として失格することを肝に銘じていたから、世間の非難や、弾劾にも沈黙をまもりとおした。美貌は、そのために、いっそう光彩をはなった。

 彼女たちは安定を拒否したために、圧倒的な支持をえた。ファンは誇張ではなしに、この女は俺のために死んでくれる女だと思った。もし、その女優に帰る家庭や夫があり、子供があったら、ファンはそれほどまでには思わなかっただろう」

 ひとりの女として不幸だったかも知れないが女優としてはきわだっていたと著者があげるのは、岡田嘉子であり、川崎弘子であり、田中絹代であり、山田五十鈴であり、原節子、高嶺秀子……。

 そんななかで著者がいちばんにあげるのが及川道子である。若くして病にたおれたが、その美貌はきわだっていたというのである。及川道子という薄倖の女優がいたというのも本書によって初めて知った。

 ほかにも国内、海外を問わず、おおくの伝説の女優たちのエピソードが、愛惜の念をもって語られている。

 女優は美貌の持ち主ゆえに反社会的な存在であり、背徳のにおいがする。だからスターなんだという指摘、オーラをうしなった昨今の女優といわれる人たちをみるにつけ、納得させられてしまうのである。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-04-07
芝。増上寺の徳川家のお墓



 芝・増上寺の大殿の裏側に徳川家のお墓(霊廟)がある。このところ花の季節にやってきているが、いつも門がかたくとじられており、雰囲気だけしかうかがえないのだが、今年は門がひらかれており、おりから公開中であった。



 門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものだという。写真はmixiの掲載制限ゆえにのっけることができないが、左右の扉(青銅)には葵紋が五つづつ配されており、両脇には昇り龍・下り龍のすがたが鋳ぬかれている。なかなか立派なものである。
 門から一歩ふみいれると、正面右に二代秀忠、左に六代家宣の宝塔があり、左右に三つづつ宝塔がならんでいる。右側は七代家継、九代家重、一二代家慶、左は14代家茂、静寛大院和宮、将軍生母側室等である。




 もともと増上寺の境内はきわめて広大なもので、現在のプリンスホテルなんかも敷地内であった。徳川家のお墓も南北にひろがっていたという。現在の墓所は土葬の遺体を昭和33年に掘りおこして、それぞれ荼毘にふし、改葬したものだという。








 旧国宝の唐門をはじめ、あちこちにあった宝塔も寄せ集めて、現在のせまい墓所にとじこめられたというわけである。将軍さまたちはさぞ窮屈なおもいをしていることだろうなとおもった。

 「天璋院篤姫」に登場した家茂と和宮(静寛院)の宝塔はもともと夫婦そろって並んでいたというが、改装後の現在も両人の宝塔は向かって左側の列でとなりあわせに配されている。ただし家茂のは石塔だが、和宮のものは青銅製になっている。



 和宮が死んだのは明治10年であり、明治になってからつくられたからだという。同寺の印刷物によると、明治になってつくられた墓はすべての点で将軍の墓より荒削り、不揃いになっている……という。











 それはひとえに明治維新という大転換のせいによるものだが、墓まで手をぬくとは薩長もいかにも料簡がせまいなあ……と、陰口、そしりをうけてもしかたがなかろう。

 それにしても……。せまい墓所にとじこめらた将軍さまたち。世が世なら……と嘆いているのだろうか。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-02-13
ふるい仲間の著書に勇気をもらう!


 大阪の作家・高畠寛さんから新著『紅い螢』をおくってもらった。著者にとっては6冊目の小説集である。

 高畠さんは古い仲間のひとりで、今からざっと30年ほどまえ、大阪で「らぐたいむ」という同人誌をいっしょにやっていた。同氏がいわば主宰者格の存在で、ほかには村田拓、奥野忠昭飯塚輝一、松原真理子、軽尾たか子、詩人の森沢友日子などが名をつらねていた。いずれも大阪文学学校(http://www.osaka-bungaku.or.jp/)のチューターをつとめる猛者であった。

 いささか手前ミソになるが、当時、大阪では自他ともにみとめる最強の書き手集団で、毎号それぞれが最低でも100枚をこえる小説をひっさげて登場した。書き上げた作品は掲載するまえにまわし読みして、メンバー全員でたがいに批評し合う。作者はそれぞれの批評をふまえて書き直す……というのがきまりであった。

 一騎当千の最強の書き手ゆえに、おのずと遠心力がはたらくようになり、やがて、それぞれが別の活動舞台をもつようになった。

 高畠寛さんはいまも大阪にあって文学学校にふかくかかわり、同人誌に小説を発表しつづけている。

 表題となっている「赤い螢」をはじめ、「山崎の鬼」「優しい脅迫者」「春の一日」「待避線」「風の素描(デッサン)」の6編がおさめられている。いずれも著者が主催する「アルカイド」ほか文芸同人誌に発表されたものである。

 主人公はおもに中年にさしかかった男、「おれ」「ぼく」「私」は大手建設会社のつとめる。いわば作者の等身大の男たちである。「山崎の鬼」の「私」はまだ30歳まえの若者だが、「優しい脅迫者」「春の一日」「待避線」の「私」「ぼく」「浩介」は中年の管理職、「風の素描」はリタイヤ目前、「赤い螢」の「私」はやはり60歳をすぎている。

 数おおくの作品のなかから、作者があえてこの6編をえらんで作品集を編んだのは、ある種のネライがあってのことだろう。

 事実、ぼくはいずれもいちど読んでいるのだが、こうして一冊に編まれてみると、またあたらしい世界がみえてくるのである。これもまた、まぎれもなく小説のもつ力というものである。

 あらためて読みなおしてみると、作者が「あとがき」で、あまり面白くない……という「会社もの」がむしろ新鮮でおもしろい。

 大手建設会社の働く男の日常をタテ糸にして、家庭のこと、父親のこと、若かりしころの女ともだちのことがヨコ糸をなし、あざやかにひとつの時代の錦絵がおりあげられてゆくのである。

 土建の世界は日本経済のもっとも象徴的な部分をなしてきただけに、いわゆる失われた10年にうごめく人間の隠れた部分をみる思いがする。

 『赤い螢』は阿久悠の作詞でしられる歌謡曲「北の蛍」をベースにした作品である。60歳をはるかにこえた主人公が、かって学生時代の恋物語を回想でかたるかたちになっている。

 幼くて稚拙ともおもえるなりゆきなのだが、懐かしい過去としてただ回想しているわけではない。思い起こすことによって、若かりしころの主人公とその彼女に時をへだててあたらしく出会いつづける。主人公も傷つきながら、ほろ苦い何かを発見しつづけるのである。そういう凝ったしかけがある。

 古い仲間がいまも健在で書きつづけていることを知ると、ほのぼのとした気持ちになり、あたらしい本のページをくるたびに、なんだか勇気づけられるのである。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-02-04
幻の名著 よみがえる!




 ヘミングウェイに『移動祝祭日』という短編集がある。岩波書店の新書版シリーズ「同時代ライブラリ」におさめられていたが、ながく絶版になっていた。昔 読んだ憶えはあるのだが、いつしか本は散逸してしまった。図書館で借り出すほかないなあ……と思っていたが、このほど「海外名作新訳コレクション」の一冊として新潮文庫になってよみがえった。

 2月1日の発売日にさっそく買いこんで再読している。同時代ライブラリーの訳者は福田隆太郎だったが、今回はヘミングウエイの短編集をはじめ「日はまた昇る」「武器よさらば」などの翻訳もてがけている高見浩である。文章がいくぶんやわらかくなり、字面もみやすくなった。何よりも「注」が豊富になり作品の背景がよくわかる。

 ヘミングウエイはいわゆるロスト・ジェネレーション(失われた世代)を代表するアメリカの作家、『老人と海』でノーベル賞をもらったことで知られている。ヘミングウエイといえば、まず『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』など長編が頭にうかんでくるが、おおくのすぐれた短編ものこしている。

 ぼくはどちらかというと短編のほうのファンである。むしろヘミングウエイの資質は短編作家ではないかとさえおもっている。

 『移動祝祭日』はかつてパリですごした青年時代を描いている。ここに収録された作品は作者のヘミングウェイが22から27歳までの時代。記者の仕事でパリにやってきて、作家としてとびたつ、まさにその時代である。新婚でこどもが出来たばかり、晩年の作者とは対照的にちょっとセンチでナイーブなすがたがうかびあがってくる。

 パリでのヘミングウェイ夫妻の暮らしはどん底、そんななかで競馬だけが救いだった。 夫妻はよく競馬場に出かけてゆく。たとえば……。


「いま競馬に使えるだけのお金がほんとうにあるの、タティ?」妻が訊いた。
「いや。とりあえず収支トントンになればいいと思うんだが。他に何か、これという使い道はあるかい?」
「そうねぇ」
「わかってる。このところ、やりくりが大変だったからな。ぼくは財布のひもを引き締めて、金の使い方をだいぶケチってきたから」
「そんなことはないんだけど」妻は言った。「でも」


「ぜひ行きましょうよ」妻が言った。「ずいぶんご無沙汰してるじゃない。競馬場にはランチとワインを持っていきましょう。わたしがおいしいサンドイッチをつくるから」
「汽車に乗っていこう。そのほうが安くつく。でも、気が進まないなら、無理にいかなくていいんだぜ。きょうは何をしても楽しいさ。こんなにすばらしい日なんだから」
「ぜひ、いかなくっちゃ」

 二人は競馬場にでかけてゆくのだが、そのときのいそいそしたようすが何ともほほえましく眼にうかんでくるのである。さらにこんなくだりもある。

「以前オートイユ競馬場のレースで、妻は黄金の山羊(シューヴル・ドール)という馬に賭けたことがあった。賭け率は百二十対一(=120倍)だった。その馬は二十馬身の差で先頭を走っていたのだが、最後の跳躍で転倒してしまい、わが家の6ヶ月分に相当する儲けがふっとんでしまった。二人ともそのことはもう忘れようと努めていた。」

 収録されている20あまりの作品になかには、若きヘミングウェイがパリで出会った人たち、ガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイスらについて存分に語っている。とくにあのフィッツジェラルドとの奇妙な交友のありかたには興味ふかいものがある。


 『移動祝祭日』はヘミングウエイ晩年の作だが、はからずもこれが遺作となる。同作品を書きあげたかれは、ほどなく猟銃自殺してしまうのである。したがって同書は作者の死後、夫人(4番目の夫人)の手によって出版されたのである。

 死の直前にパリですごした青春時代を回想したのは、どん底の生活だったにもかかわらず、夫婦と幼子が身をよせあうようにして暮らしたころが、人生のなかでいちばん輝きをはなっていたと思いあたったからだろう。たとえば、こんなふうにも書いている。

「私たちは金をつかわずにたっぷり食べ、金をつかわずにたっぷり飲み、暖かい眠りを二人で存分に味わい、こころゆくまで愛し合ったのである」



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
2009-01-29
さようならウサギ!

さようならウサギ!

 アメリカの現代文学を代表する存在というべきジョン・アップダイクが27日に肺ガンのために死んだという。

 アップダイクは影響を受けた作家というわけではないが、熱心な読者であったと自負している。とくに「ウサギ」とよばれるハリー・アングストロームを主人公とした『走れウサギ』『帰ってきたウサギ』『金持になったウサギ』『さようならウサギ』の四部作は、翻訳本が発売されるたび、すぐに買ってよんだ。

 高校時代に「ウサギ」と異名をとったバスケットボールの花形だったハリー、勤勉なサラリーマンとして登場するのが『走れウサギ』である。家庭の落ち着かない妻との空虚な暮らしにたえられなくなって、やがて飛び出してゆく。

『帰ってきたウサギ』では欲望のおもむくままに彷徨したウサギの姿がある。あれやこれやののちに、妻のもとにかえってきたウサギ、印刷工として地道にはたらきはじめる。

『金持ちになったウサギ』では、そんなウサギも中年になっている。ちょうど、うまい具合に義父が死んで、義父の自動車ディーラーをうけついだ。経営者というわけだが、自動車業界は、おりから第一次石油危機がやってくる。燃費の悪いアメリカ車は敬遠されるが、ウサギは日本の車をあつかっていたから、たちまち大金持になる。だが息子のことで頭をなやませる。息子は親のウサギのとおった道をたどっている。そして、ひそかにしにびよる死への予感……。

『さようならウサギ』はシリーズの完結編である。五〇なかばになったウサギはトヨタの代理店を息子ネルソンにゆずり、悠々自適の生活……。だが心配の種ばかり。息子はドラッグにまみれ、借金をつくってしまう。妻のジャニスは働きに出たいと言いだすありさま。ウサギ自身は心臓病という爆弾をかかえている。
 若いころから女性遍歴をつづけたウサギの生涯、その最後をかざるのは、絶望して自暴自棄になった息子の嫁プルーとのたった一回の情事であった。

 1960年から2000年あたりまでのアメリカ、アメリカのちいさな町に暮らす中流家庭の日常が克明に描かれており、ウサギの生きざまを追うことによって、アメリカの歴史がうかびあがるというしくみになっている。ウサギはアメリカそのものだったとみることができる。

 各作品に登場するウサギの年齢が、ぼくの年齢とほぼ同じだったせいもあるだろう。主人公に共感をおぼえることがおおかった。とくに現代アメリカの秩序というものに背を向ける『走れウサギ』は刺激的だった。

『帰ってきたウサギ』以降の作品は、『走れ……』の新鮮な感動にはおよばなかったが、、ぼくはウサギとともに走り、ウサギともに歳をとってきた……という思いがする。不思議な懐かしさすらただよう作品なのである。



0 コメント | コメントを書く | コメントの表示  
Template Design: © 2007 Envy Inc.