2014-01-28
赤羽有紀子のラストラン!



 日本人トップで赤羽が長居の競技場に入ってきたとき、場内は大きな拍手でわきたった。それは先に駈け抜けたウクライナのガメラシュミルコをはるかに上回っていた。両手をあげてスタジアムの声援にこたえる赤羽、サングラスを外した彼女の横顔にさわやかな笑みがやどっていた。彼女はもう、ふたたびアスリートとして競技場に立つことはない。ゴールするまでに、なんども、なんども手をふって、観衆にこたえていた。
 最後まで走りきった安堵の笑顔というべきか。悔いなくラストランを終えた満足の表情というべきか。ゴールテープをきったときの笑顔がなんとも美しかった。

 赤羽有紀子。
 ながく日本の女子長距離のひっぱってきたランナーである。日本最初のママさんランナーとしてもよく知られている。ぼくがHP「福本武久の小説工房」に、独断と偏見による駅伝観戦記『駅伝時評』をオープンしたのが1997年、奇しくも同じ時期に、赤羽は登場している。それいらいおよそ26年、彼女の走りをウオッチしつづけてきたことになる。

 どちらかというと遅咲きのランナーである。高校時代はさしたる実績もない。全国的には無名のランナーだった。全国デビューは第16回全国女子駅伝(1998)である。真岡高校3年のとき、栃木代表として4区に登場、区間3位という記録が残っている。
 女子駅伝の強豪・城西大学に進んでからは全日本大会で4年連続区間賞にかがやいた。エースとして、つねに長い距離をまかされ、母校の優勝をもたらした。だが、当時は大学女子駅伝のグレードは低くかった。大学時代に全国女子駅伝に3度出場しているが、準エース区間の1区をまかされたものの区間成績の最高は7位、女子の全日本レベルで、まだまだ無名に近かった。
 彼女が女子長距離ランナーとして開眼するのはホクレンに入社して3年目からである。大学時代の同級生でランナーだった浅利周平と結婚、赤羽自身は結婚を機に引退するつもりだったらしいが、ホクレンに慰留されて競技続行を決心した。夫の周平がホクレンのコーチにつき、赤羽専任になってから、快進撃が始まる。
 2005年11月27日に5000mで日本歴代4位にあたる15分11秒17をマーク、日本のトップランナーに躍り出た。翌年8月には女児を出産、その後も競技を続行する道を選び、日本初のママさんランナーとして注目を集めた。
 赤羽が衆目をアッといわせたのは2007年11月の国際千葉駅伝である。ナショナルチームのアンカーとして登場した彼女は、トップをゆくケニア代表のキャサリン・ヌデレバ(アテネ・北京オリンピック女子マラソン覇者)を逆転、日本チームに優勝をもたらしたのである。

 結婚、出産を経験して強くなった赤羽の勢いはとまらない。同年12月には10000mで翌2008年の北京オリンピックA参加標準記録を突破、2008年3月の全日本実業団ハーフマラソン(山口県)では1時間08分11秒、野口みずきの大会記録を更新して優勝した。

 北京五輪の内定がもらえる2008年6月27日の全日本選手権の10000mは歴史に残るレースとして今もくっきり記憶に残っている。
 女子長距離トラックの第一人者である渋井陽子・福士加代子の両雄とラスト1周まではげしく競り合った。残り1周の鐘で赤羽が先頭に立った。優勝をのゴールをめざして乾坤一擲のラストスパートをかけた。のゴール目前の直線で渋井に抜かれ2位に終わったものの、31分15秒34の自己ベストをマークした。2日後の6月29日の5000mでも小林祐梨子に次いで2位でゴール、文句なしに力で両種目の北京代表をもぎとった。ママランナーとして史上初のオリンピック代表である。

 2009年1月、大阪国際でマラソンデビューを果たし、2位でベルリン世界陸上のマラソン代表になるが、脱水症状で31位、2010年の大阪国際で再起を期したが、故障をかかえての出場で途中棄権という挫折を味わった。
 2011年1月の大阪国際でマラソン初優勝、世界陸上大邱大会の代表にもなったが、マラソンではいまひとつ乗り切れないレースがつづき、ロンドン五輪の代表に漏れ、世界陸上モスクワ大会の代表も逃してしまった。その赤羽がラストランに第33回大阪国際女子マラソン(2014.01.26)を選んだのである。見逃すわけにはいかない。

 本大会をラストランと宣言した赤羽、スタートから積極的だった。
 レースは若い重友梨佐(天満屋)が序盤から軽快にひっぱり、最初の5㎞=17:09だったが、5~10㎞は16:44と上がった。好記録の予感ありのハイペース、「速い」と感じたというが赤羽はしっかり先頭集団についていた。連覇をねらうガメラシュミルコはその後ろにいたが、赤羽には躊躇はなかったようである。これで最後だ……という想いが、背中を押したのだろう。

 最初にレースが動いたのは15㎞すぎだった。
 給水ポイントでポーランドのヤジンスカが飛び出した。いかにも力感あふれるフォームでトップに立ちレースを引っ張った。ここで若手期待の重友がついて行けずに、じりしじろ後退したのは意外だった。
 単独トップに立ったヤジンスカを赤羽が追った。19㎞手前でとらえて併走状態にもちこんだ。だが、後ろから満を持していたガメラシュミルコのエンジンがかかった。20㎞ではおよそ44秒の差があったが、じりじりと追い上げてきて、32㎞すぎでは追いついてしまった。
 先頭集団は3人になったが、34㎞でヤジンスカが遅れはじめた。赤羽とヤジンスカのペースがあがったというわけではない。ヤジンスカがペースダウンしたのである。かくして優勝争いは赤羽とガメラシュミルコのマッチアップになったが、ここからの赤羽の走りが圧巻だった。
 35㎞~37㎞までの両者の攻防は見応えがあった。ガメラシュミルコの後半の強さは誰もが知るところである。赤羽はそれを承知で35㎞すぎからなんどもスパートをかける。ガメラシュミルコを引き離しにかかる。だがガメラシュミルコも素早く対応した。これもまたさすが…と思わせられた。
 35㎞といえば、マラソンでは最も苦しいところである。ここで赤羽は渾身のスパート、それも執拗に繰り返した。35㎞をすぎて、これほどの勝負が出来る。現在の日本人ランナーのなかには皆無である。ラストランのランナーがそんな走りをしたこと、驚きというほかはない。肩の力がぬけて、リズミカル、ほれぼれするような走りだった。
 めまぐるしいトップ争い。だが37㎞すぎだった。ガメラシュミルコが前に出てると、もう赤羽には追う脚はなかった。

 赤羽の健闘は称えねばなるまい。最後までめいっぱい勝負をかけての負けなのだから、いたしかたのないところ。股関節や足首に不安をかかえ、コンディションは必ずしも万全ではなかった。「走ってみないとどれぐらい走れるか分からない」といっていたが、むしろそれが好結果に結びついたというのか。ラストランという開き直り、あるいは精神的な開放感もあったのかもしれない。

 ゴールした後、スタンドに挨拶したあと、赤羽は待ちうけていた夫でありコーチでもある周平氏の胸にとびこんでいった。コーチとして終始、選手としての赤羽をサポートしてきた周平氏の、いかにも満足そうな笑顔も好もしかった。
 赤羽の走りを讃えたいと思うが、それと裏腹に、日本女子のマラソン・長距離の未来に想いを馳せると、なんともはやお寒いというほかない。これはどうしたことなのだろう。 今回の招待選手のなかで、期待の星は重友梨佐であった。2年前の大阪国際で日本歴代9位に相当する2時間23分23秒で優勝。ロンドン五輪では惨敗したが、年齢的にみて25歳の重友あたりの世代が日本を背負わなければならない。本大会で復活して、新しいリーダー名乗りをあげてもらいたい。関係者はこぞってそう思っていたはずである。ところが自己ワーストの64位。さらにトラックの第一人者。新谷仁美も31日に引退を発表するという。日本女子の長距離・マラソンはどこにゆくのか。

 本大会で4位に仏教大の4年生で今春ダイハツに入社する前田彩里、後半の走りは勢いがあった。だが、マラソンはそんなに生やさしくはない。彼女の次走りに多くを期待するのは酷というものである。ながく「駅伝時評」をつづけてきて、男女ともこれほど顕著に、マラソン・長距離「冬の時代」がやってきたのは初めてのことである。
 各実業団チームとも選手層が薄くなった。マラソンをめざす選手がきわめて少なくなったのである。
 日本のアマスポーツは総じて実業団が支えてきた。実業団を中心としたプラミッド組織で選手たちは養成されてきたのである。一般企業による実業団が多額の資金を投じて、スポーツ選手を育成強化してきたのである。たとえば「駅伝」だが、チームを持とうと思えば年間2億から3億ぐらいかかるらしい。宣伝費と思えばいいわけだが、バブル景気崩壊後、この実業団システムが崩壊してしまった。
 駅伝チームを持つ企業にしても、最近は資金がまわらなくなった。宣伝に結びつく目先の駅伝をフォローするだけで精一杯、手間ひまかかるマラソン選手の育成にまで手が回らなくなってしまったのが現状だ。
 赤羽有紀子、新谷仁美の引退、日本女子のマラソン・長距離にとって、確実に一つの時代が終わったような気がする。

 ところで……
 ながく二人三脚で歩んできた赤羽夫婦、今後、いったいどういう人生を歩むのだろうか。ラストランの肩の荷をおろして、笑顔で抱き合う2人の姿をみていて、わけもなく、ふと、そんなことを思った。きっと小生が小説書きゆえのことだろう。彼も彼女もまだ折り返し点にも達していない。未来は無限なのである。



0 コメント | コメントを書く  
Template Design: © 2007 Envy Inc.