2011-07-22
菅谷昭さんの『新版・チェルノブイリ診療記』


 菅谷昭さん(現・松本市市長)の『新版・チェルノブイリ診療記』(新潮文庫)を読んだ。著者は1995年、信州大学医学部の助教授だったが、チェルノブイリの原発事故のあと、子どもたちを救うべく、わが職をなげうち、自費でベラルーシに飛んだ。5年間にわたって外科医として甲状腺ガンなどの手術に腕をふるった。

 先に晶文社から『チェルノブイリ診療記』というタイトルで単行本になっていたが、本書はその文庫化である。

 文庫によって再読したのだが、新版には、「福島原発事故への黙示」というサブタイトルが付されており、福島原発事故を強く意識して刊行されたものであることがわかる。

、冒頭に新しくかかげられた「新版に寄せて」には、チェルノブイリで医療活動に従事した医師の立場から、福島の原発事故に対する国の対応の甘さを指摘、専門家としての苛立ちが、いかにも医師らしく冷静な筆致でのべられている。

 著者は事故発生当時から内部被曝の怖さを力説している。だが国には国民の立場に立っているとは思えず、ハナから危機管理の姿勢がみえていないと説く。国家がもっともやらねばならないのは国民の生命をまもることだが、その認識が政府にあるかどうか疑わしいというのである。そして次のようにのべている。

「政治家や官僚、あるいは研究者は「統計」や「集団」という形で物事を考えたり、処理しがちだ。だが、チェルノブイリでの経験から私が強く願うのは、目を向けるべきは、個々のケースであるということだ。たとえ、統計上は甲状腺ガンの致死率が他のガンに比べて高くないとしても、現実には病と闘う子どもがいて、時に命を落とす子どもがいた。本人の辛さや哀しみ、家族の切ない思いのを目の当たりにすると、ひとりひとり、個々の命こそが大切であることを改めて痛感する。机の上で何をどう分析しても、命を失う痛みはわからない。」

 こどもたちひとりひとりの生命によりそってものごとを考える。本書はまさに、著者自身が被爆によって多発した甲状腺ガンに苦しむベラルーシの子どもたちとその家族によりそった迫真のドキュメントである。

 チェルノブイリの事故、あれはベラルーシ、他国の出来事……と思ってはならぬ。ベラルーシと同じ状況が5年後、10年後、わが国にやってこないという保証はどこにもない。著者はそのように警鐘をならしている。

 そういう意味で、この時期に、本書を文庫にしたのは時宜を得た出版というべきで、twitterでものべたように、刊行した新潮文庫の姿勢を高く評価しておきたい。



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2011-07-20
ボートレーサー江口晃生の『ベテラン力』(ぶんか社)を読んだ!




 いざ出陣!「恐れるな、挑め」
 ボートレーサーの江口晃生は、いつもそのようにtwitterに書いてレースにのぞむ。いわば、みずからを鼓舞する儀式というわけなのだろう。

 江口晃生は1965年生まれだから今年46歳、ボートレーサーとしてデビューから27年、いまや選手としてベテランの部類にはいる。競艇で最高峰のレースであるSG競争を2度制覇、いまもなお第一線で踏ん張っている。

 モーターの整備力に非凡の才があり、勢いよりもテクニックで勝負するレーサーである。だからこそ45をこえても、レーサーとして最上位のクラスランク「A1」をキープしているのだろうと思う。

 つねに自分にきびしく、レースでもいっさい妥協というものがない。二年まえに早稲田大学の大学院に進んだのも、ただの気まぐれではないだろう。「ボートレース界に恩返しがしたかった」と本人はのべている。

 かくして2009年、かれは公営競技の選手として初めて大学院に入学、あの桑田真澄とともにスポーツ科学研究科で学んだのである。卒業論文の「ボートレース界のさらなる発展に向けた改善策に関する研究」は最優秀論文賞をうけた。

 その江口晃生がこのほど『ベテラン力』(ぶんか社刊)という本を出した。「極みに挑み続ける男達の才覚」というサブタイトルにもあるように、江口とおなじく、いまなおスポーツの各分野で輝きを放つベテランアスリートたちをとりあげた対談集である。

 スポーツの分野で「経験」はなによりの財産、「ベテラン選手たちが大切にしてきたその宝物に、ほんの少し触れさせていただくことで、私にとっても、またこの本を手に取ってくれた方にも、新しい可能性を発見できればと思っています」とあり、四〇歳代以上のおじさんに元気をあたえ、その生き方をポジティブにしょうというのである。

 江口の対談相手として登場するのは船木和喜(36歳)、工藤公康(48歳)、中澤佑二(33歳)、武豊(42歳)、山本博(48歳)、田臥勇太(30歳)の6人である。それぞれトップをきわめたアスリートゆえに、その言葉と語り口がおもしろい。

 20歳で金メダリストになった船木和喜、その後、どんぞこまで堕ちた。「落ちるところまで落ちて。プライドは粉々になりましたね。粉々になったプライドを拾い集めていたら、多分、他の物も拾えたのでしょうね。以前の自分よりも大きくなっていたんです」

 48歳になってもいまだに現役にこだわる工藤公康は、ながくプレーするには体力よりも技術こそが重要だと説き、いまだに技術の研鑽をおこたらない。「僕は調子のいい選手がいたら、なぜあの選手は勝てるのだろうって、すごく研究するんです。それで、このやり方がいいんじゃないかと、このトレーニングがいいんじゃないかって考えるんですけど、こっちが正しいという直感はベテラン選手のほうが持ってると思うんです」

 あの中澤佑二が江口の前では飾らずに本音をさらけだしている。「サッカーでも活きのいい選手がどんどん出てくるし、勝ち気な選手もいます。そいつらを経験で抑えるというのは、ベテランからすればひとつの楽しみですよね。相手のドリブルを止めたときなんて、「この野郎! まだ世代交代しねえぞ」て思いますから」とのべ、そのために若い選手が10がんばったら、自分は11、12がんばるという。

 武豊といえば競馬をやらない人にも知られるほどのトップジョッキーだが、後輩に聞かれたら自分の技術を教えたりするか、と江口にたずねられて、「聞かれたらやっぱり答えますね。僕は日本の競馬を全体的にレベルアップしていきたいって思っているんです。今の競馬界は、外国人ジョッキーがすごく活躍するようになってきたんで、みんなでレベルアップしていかないとダメだと思ってます」とのべるのだが、そんな武豊も海外にゆくと知らない厩舎をおとずれ、まるで新人ジョッキーのように「日本から来た武です。チャンスをください」と言ってまわる。つねに初心をわすれない。

 アーチェリーの山本博は6人のうちで工藤とならんで最高齢だが、つぎの一言が印象にのこった。
「歳を取ると誰だって、変化することに対応しづらくなっている部分があると思うんです。信念を持つことは大事なんだけど、信念を持って自分を変化させることも、また大事だと思うんですよ。だから僕は、同じ頑固親父になるなら、自分を変えてゆくことに頑固になりたいですね」

 いちばん若い田臥勇太は、アメリカに渡り日本人として初めてNBAでプレーしたバスケットボールの選手である。アメリカでいつ解雇されるかわからないという状況に身をおいてきた。「僕はいろんな所でプレーしてきて、なぜ?って思うことも多々あったんですけど、それでもあきらめずにやるしかなかったんです。もう、折れたほうが負けですよ。何も悪いことをしてないのに文句を言われたり、相手にされなかったりいっぱいあったんですけど、全部モチベーションにしました」チャンスがめぐってきたときに逃さないように、自分しかできないこと、自分の得意なことに磨きをかけたっというのである。

 いかにも修羅場をくぐってきたアスリートならばこその言葉である。ボートレーサーとしての自らを語りながら聞き手をつとめる江口、だが6人すべてが江口のまえでは、気負うことなく素直に本音をさらけでしている。トップアスリートから重みのあることばを引き出したのは、ひとえに著者の人徳によるものだろう。

 江口がこの本で、いちばん言いたかったのは何なのか。文中のかれのことばでいえば次のようになるだろう。
「どんな仕事でもそうなんですが、大切なのは自分からアクションを起こしてチャンスを掴みにいくことだと、私は思っています。そのチャンスをものにできるかどうかはわかりませんが、動き出さない人にはきっと出会いもない」

 江口はこのように書いている。四〇をすぎて大学院に進んだのも、この本を書いたのもそういう持続するチャレンジ精神の所産なのだろう。ベテランでも、というよりもベテランだからこそ、そういう初心を忘れてはならないのだと言いたげである。
「恐れるな、挑め」というかれの信条にこめられた想いが具体的なかたちでそこにあるように思った。



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2011-06-16
太宰治賞の授賞式

 昨夜、丸の内の東京會舘で第27回太宰治賞の授賞式があった。毎年この日に、まさに一年にいちど会える人が何人かいるので今年も行ってきた。

 同賞は第14回(つまり小生の受賞したとき)以降、20年も中断している。主催する筑摩書房が倒産したからである。1999年から再開され、筑摩書房だけでなく三鷹市が加わって共催のかたちとなった。

 もともと太宰賞の授賞式は、著名な作家や編集者、出版関係者が多く顔を見せ、いかにも文学者の集いという雰囲気だったらしい。けれども小生は不幸にもその時代を知らないのである。

 他人の授賞式に出席したのは再会後の授賞式だが、三鷹市との共催となったせいだろう。当然のこととはいえ、雰囲気が変わり、お役人さんとギョウカイの人がやたらと多くなったように思う。文学者の集い…という雰囲気はすっかりなくなったしまった。けれども資金的なバックアップをすべてゆだねているのだから、これは、しかたがない。

 ひとつ不思議に思うことがある。三鷹市のような行政が加わるということ、そうなると受賞者に与えられる賞金は税金から出ていることになる。市民の血税から捻出されているのである。

 はたして、これでいいのだろうか?

 文学というもの、太宰賞が対象とするような純文学的作品は、かならずしも、お行儀のいい世界ばかりを描くわけではない。端的にいえばもともとアナーキーなもの、ごく普通の社会生活に背をむけるスタイルをとるものもある。エロ、グロ、暴力……、素材としてはナンデモアリの世界なのである。

 世間の常識に背を向けるような作品が出てきたとき、税金がつかわれても、それが文学的に優れているとして、容認できるだけの度量が行政側にも、税金を払う市民にもあるのだろうか。それらを排除する方向に進めば、文学のめざすところとは、およそ正反対の方角にいってしまう。そこのところが、いつも気になる。

 今回の受賞者は東京在住の男性、いわば実験的な作品である。選評をのべた加藤典洋さんのスピーチがおもしろかった。

 「わけのわからなさ」が、おもしろくて積極的に推したというのである。作品全体が、よくわからない、けれども、受賞に値すると思ったというのだから、聞いているほうは、もっとわからなくなってしまった。

 その「わからなさ……」の実態が何であるか。たしかめるために、これから受賞作を読んでみることにする。

 



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2011-06-15
新島八重さん、本がなくなりそうです!

 奇妙な現象がおこっている。
 小生の著者に、山本八重(のちの新島八重)を主人公にした小説が2冊ある。『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)と『新島襄とその妻』である。

 後者は朝日放送創立35周年記念番組としてテレビドラマ化された作品でもある。ドラマスペシャル「女のたたかいー会津から京都へ」として1985年11月1日放映されている。2時間20分におよぶという現在では考えられない長時間番組であった。(http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-22308)

 前者は八重の会津時代を描いたもの、後者は八重が兄をたよって京都にやってきて新島襄と結婚、ともに歩むものがたりである。

 むろん両著ともに絶版になっており、街の書店で新本を入手することはできなくなっている。著者の小生も、気がついたら控えだけになってしまっていた。

 市場にはなくても、著者のもとになら本があるだろう……と、ときおりたずねてくださる奇特な読者から問い合わせをうけるのだが、そんなときはAmazonの古本販売サイト「マーケットプレース」でどうぞ……と、ご案内することにしている。

 同書はテレビドラマにもなり、わりあいよく出た本なので、マーケットプレイスには常時10冊以上ならんでいた。状態の良悪におうじて600円~1000円前後というのが相場であった。何を隠そう。著者の小生も手もとに本がなくなって2冊ばかり買ったことがあるのである。

 ところが、昨日の夜、のぞいてみると、高価なコレクター向けの品(おそらく状態がすこぶるいいのだろう)の2冊(なんと2,970円と高い!)をのぞいて、すべて売り切れてしまっているではないか。

 新島八重が13年の大河ドラマでとりあげられるという新聞報道(6/12)がなされてから、にわかに、なくなってしまったらしいのである。メディアの力とはすごいものだとあらためて痛感させられた。

 古書サイトのインターネットサイト「日本の古本屋」で検索すると『新島襄とその妻』のほうは8点がラインナップされており、状態の良し悪しで600円から2,500円と、やはり高い品しかのこっていない。

 もうひとつ「古書ー紫式部」では3冊がヒットした。これら11冊も早晩、姿を消してしまうことだろう。

『会津おんな戦記』のほうは、もはやインターネットによる古書も品切れになってしまっているのを知って唖然とした。

 何とかしてください……なんて、熱心な読者に泣きつかれたらどうしようか。困ったことになったなあ……と、なんとも複雑な思いをしている。(笑)

こんなとき、襄先生なら、どんなふうにお答えになるのだろうか。いぢととっくり訊いてみたいものである。



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2011-05-20
結果が怖いから、検査してないって? ちょっと待ってんか




今朝の「読売新聞」埼玉版をみて、びっくり仰天、あ然としました。

 福島原発から200㎞もはなれている埼玉は放射性物質の汚染される可能性はきわめて低いといわれ、そういうみかたはは妥当性があるものとおもってきましたが、どうやらそうではないようです。

 水と農産物の放射能汚染が深く静かに潜行しているようで、気がついたら知らぬは県民ばかり……という事態になりそうな気配です。

 事実、4月の上旬に東飯能と熊谷の牧草地で高濃度の放射性物質が検出されており、安全圏ではないことが明らかになっております。

 あれ、あれ、ちょっと待ってチョウダイよ……と仰天したのは、県は農産物について放射性物質の検査を放擲してしまっているという事実です。検査機関の手がまわらないという現実もあるようですが、そのまえに、まったくハナから検査する気がないようです。

 とりあえず量的に多い品種について検査をしようというわけで、検査をおこなったのはハウス栽培のほうれん草のみ、それで埼玉の農産物は基準値以下などといっているのですから、恐れ入りやのなんとやら……です。

 ハウスものが基準値以下なのはあたりまえの話。おどろいたことに露地ものの農産物についてはいっさい検査をやっていません。高濃度の数値が出るのが怖いからだというのですから、あきれ果てるじゃありませんか。

 今後も検査をやるつもりはないようです。県はビビッているのです。もしダメだということになれば補償問題もからんでヤヤコシイことになるので、触らぬ神に祟りなし……を決めこむ腹づもりのようです。いかにも、小心者のお役人の考えそうなことです。

 県民の健康をまもるという気など毛頭ありません。農協と農家に圧力をかけられて腰砕けになっているようです。なにもやらないことでもって、国と東電、農家の擁護にまわり、ひいては我が身の保身に走ってしまったのです。職務怠慢じゃないの。給料返せ…と、

 だから埼玉の野菜はアブナイのです。安全ではありません。埼玉の農産物でわすれえてゃならないのは「茶」です。「茶」といえば、先に神奈川で高濃度の放射性物質が検出されて大騒ぎになりましたが、神奈川がダメなら、埼玉が無事であるはずがありません。

 全国的に有名な狭山茶ですが、むろん県は放射性物質の検査をしていません。これも結果が怖いからやらないのです。検査をしていなから安全だという。それって犯罪的じゃないのかなあ。お茶はまちがいなくアブナイのです。

 もっともわが家は、もともと狭山茶の本場に住みながら、狭山茶を飲んでいません。(笑)なぜか奈良の農家からの茶をとりよせているのです。「アホちゃうか。そちらは狭山茶があるのに、どうして?」と農家の人に不思議がられているしまつです。

 ところで放射性物質、国内法的にも国際法的にも、一般人の許容範囲は年間1ミリシーベルト以内です。これでも安全が化学的に保証されているわけではありません。それ以上にすると原子力産業が立ちゆかなくなるから、妥協の産物としてきめられた数値なのです。

 しかし、まあ、放射能が悪さをするのは20年~30年後ですから、高齢のぼくらには関係のない話になります。狭山茶を飲み、東北や関東圏の野菜、肉類、三陸の魚をどんどん食ってもいいのです。そしておおいに被爆して、放射能は墓場にもってゆけばよろしい。

 ところが将来あるこどもはあきまへん。東北はもちろん関東圏で生産される食品を喰うてはあかんのです。喰うたもの…からだけでなく、肺で吸ったもの、触ったもの、浴びたもの、足し算、かけ算で合わせ技一本、そしてオダブツとなります。

 放射性物質の問題は松本市市長の菅谷昭さんがおっしゃるように、つねに最悪の事態を想定して、あの手この手で対策を講じておかなければならない…という話、ますます説得力が出てくるようです。

 とにかく、まだまだ突っ込みが足りませんが、今朝の読売新聞(埼玉版)の勇気に、まずは拍手喝采をおくりたいと思います。昨今はファッショさながらの時世になり、東電、原発に批判的な言動をとれば、ただちに俳優やタレント、歌手、コメンテーターなどすべてテレビやラジオの番組から降板させられ、学者やジャーナリストも村八分にされるようですから、よくぞ、ここまで踏み込んでくれたものです。

 そんなわけで、朝っぱらから、「なんでやねん」と、後手後手にまわっている県のありようにあきれ、けれども、後手後手にまわっているのは国もしかりだから、この問題はつまるところ自己責任で対処するほかないのかなあ……と、ひとりごちておりました。



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2011-05-17
吉村昭『三陸海岸大津波』を読む!



「 津波は自然現象である。ということは、今後も反復されることを意味している。
 海底地震が頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大被害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていいい。津波は今後も三陸海岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」

 吉村昭著『三陸海岸大津波』(文春文庫 2004年3月刊 460円)の一節である。同作はもともと『海の壁ー三陸沿岸大津波』として中央公論社から1970年7月に刊行されている。 1984年に中公文庫となって、読み継がれ、さらに2004年には文春文庫となって復活した。今回の東日本大震災で、作者の慧眼におどろき、再認識させれれるところがおおくあった。

 東日本大震災をみるに、はからずも著者の予感どうりになってしまったというほかない。三陸海岸を襲った津波は過去400年のうち、大小あわせて40あまりもあるという。そのなかで大津波として記録されているのは明治9年(1896年)と昭和8年(1933年)のものである。

 著者はこの二つの大津波をとりあげている。みずから三陸海岸をあるき、津波の体験者をたずね、直接話を聞いて「記録すること」に徹している。虚飾を廃して、圧倒的な事実の積み重ねによって「大津波」の凄まじさを浮き彫りにしている。

 明治9年の大津波は死者26,360人、流失家屋9,879戸。最も被害を受けたのは岩手県であり、被害の規模からみれば、今回の東日本大震災と類似点がおおい。

 なかでも田老町は激甚をきわめ、23メートルをこえる津波で一戸のこらず流失した。さらに同町は昭和8年のときも村ごと津波にのみこまれてしまったのである。

 津波の猛威について、著者は体験者の記録を整理して明らかにしている。経験者ならではの表現ゆえに、その恐怖はそくそくと伝わってくる。なかでもリアリティにみちているのが、小学校生徒たちの作文である。そのひとつをあげておこう。

「……
 表に出て下の方を見下しますと、あっちこっちにごろごろと沢山の死体がありました。布団を着たまま死んでいる人もあれば、裸になって死んでいる人もありました。
 お昼ごろに、叔父さん達がもどって来ましたので、
「何人見付けたべえ」
 と聞いたら、二人といった。だれとだれかはわからないので又聞いた。すると叔父さんは、泣きながらお父さんとおじいさんといって涙を流しました。
 私の眼からも涙が流れました。母さんや静子はどこにいるのだろうと思うと悲しくなって、ただ大声で泣きました。(中略)
 だんだん日がたって、何時の間にか岡に死体が見えなくなりました。私が、いつもの口ぐせに、
「叔父さん、お母さんたちは見つからないの」
 と聞くたびに、叔父さんは目に涙をためて、
「お母さん達は、たしか海に行ったろう」
 と言うのでした。
 私は死体が海から上がったという事を聞くたびに胸がどきどきします。私は、一人であきらめようと思っても、どうしてもあきらめる事は出来ません。三度三度の食事にも、お父さんお母さんのことが思い出されて涙が出てきます。
 町を通るたびに、家の跡に来ると何だかおっかないような気がします。近所の人々は。「アイちゃん、何してお父さんをひっぱって馳せないよう(どうして無理にもお父さんをひっぱって走らなかったんだよう)」
 といって、眼から出てくる涙を袖でふきながら、私をなぐさめてくださいます。
 私は、ほんとに独りぼっちの児になったのです。」(「津波」 尋六 牧野アイ)

 悲惨な状況と当時、尋常6年だった少女の深い悲しみが胸に迫ってくる。ぼくが大津波を畏怖するのは、死者や行方知れずの人たちの多さではない。ある日とつぜん、父や母を奪い去られ、平穏な日常からまるで生き地獄のような奈落に突き落とされたという、ひとりひとりの具体的な現実そのものなのである。

 田老町は今回の震災でも死者129名、行方不明71名、多数の家屋を流失した。過去2回の大津波の教訓から同町は「防災宣言の町」として生まれ変わり、松の防潮林、「万里の長城」と称される総延長2.4km、高さ10mの日本一の防潮堤をつくり、松の防潮林をととのえた。町の避難路はすべて高台に向かい、「隅切り」と呼ばれる十字路の見通しを確保するなど、防災の工夫を二重三重にこらしていた。

 だが、今回の大津波は、そのシーンはテレビでも放映されたように、自慢の防潮堤を軽々とこえてしまったのである。

 津波の高さを正確に測るのはむずかしい……と著者の吉村昭は書いている。たとえば明治29年の大津波だが、学者の想定では10~24メートル、ところが著者が集めた証言のなかには50メートルに達していた。

 今回の大津波はどれほどの高さだったのか。それはこれから検証されるのだろうが、20~50メートルの規模ともなれば、もはや海辺には人間は住めないだろう。逆にいえばいままで人が住んではならないところに家を建てて暮らしていたということになる。

 復興の地図ははそういう事実をふまえたうえで描かねばならないのだろう。ただ何も考えずに、被害地をもとのすがたを復元するのだったら、20~50メートルもの防潮堤をつくらねばならないことになる。これはまさにバベルの塔というべきで、現実的に不可能ではないだろうか。 読了後、ふと、そんなことを考えていた。
 



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2011-04-19




 江戸時代……。武州川越(現川越市)は東国の穀倉といわれ、あらゆる物資の集散地でした。川越にあつまった諸物資は陸路(川越街道)ではなく、舟にゆられて江戸に運ばれてゆきました。

 荒川の西側にあって、川越城下よりにほぼ一里の間隔を保ち、並行して流れる細い川筋が現在もあります。それが松平伊豆守がひらいたという新河岸川です。今ではほとんど知られることのないこの新河岸川は、川越と江戸を結ぶきわめて重要な水路でした。川越には扇河岸、上・下新河岸、牛子河岸、寺尾河岸の5つの河岸がひらかれ、新河岸川にはつねに300~500艘もの高瀬舟が往来していたのです。

 川越を発った舟は新河岸川をくだり新倉で荒川に合流、千住、花川戸(浅草)まで、荷船は日本橋、箱崎までゆくのでした。

 俵物(米穀)、木材、甘藷、素麺、醤油、炭(青梅)、杉皮、石灰などを舟路で運んだのです。

 川越夜舟としてしられる貨客船は川越を宵に出発すれば、翌日の昼には花川戸(浅草)に到着、陸路よりもはるかに速かったのです。

 新河岸川をくだった舟は生活必需品を満載して帰帆しました。織物、塩(赤穂)酒、酢、砂糖、鮮魚、肥料(尾張糠、干鰯、木灰、油粕)、藍玉、鉄器類。変わったところでは熱海の温泉を樽詰めにしてはこんだという記録もあります。それらは川越だけでなく、秩父、甲斐、信濃までとどけられました。

  江戸と川越をむすぶこの新河岸川を舞台にした小説『武州かわごえ 繋舟騒動 』をこのほど電子書籍とオンデマンド印刷本でBookWay から刊行しました。

 嘉永3年、藩をゆるがす大騒動……。

 舟賃の値上げをめぐって、船頭、舟問屋、川越商人が3つどもえの様相! 船頭たちは2度にわたって舟を繋ぐという実力行使に出たのです。江戸では米騒動が起こり、川越では諸物価が高騰してたいへんな騒ぎとなりました。

 本作品は河岸のリーダー・炭屋半蔵が、利害対立する舟問屋をとりまとめ、川越藩、船頭、商人、街道の馬子たちの間に立って奔走する姿をえがいた歴史・時代小説です。

 興味がありましたら、まずサイト で立ち読みしてみてください。

 370頁もある長編を電子端末で読むのはかなり骨でしょうね。おそらく売れないでしょう。(笑) それでも読んでやろう……という奇特なお方がおられたら、価格は少し高くなりますが、オンデマンド印刷本 (注文に応じて1冊から印刷製本する)バージョンで、読んでいただければ……と著者として、なんともはやムシのいいことを希っております。



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