2010-05-13
田宮虎彦『寛永主従記』を読む!


 田宮虎彦といっても、現在ではほとんど知る人もないだろう。『菊坂』『絵本』『足摺岬』『異母兄弟』などの小説作品で知られ、1950年~1960年代に活躍した作家である。

 足摺岬(監督・吉村公三郎、主演・木村功/津島恵子)、異母兄弟(監督・家城巳代治、主演・三国連太郎/田中絹代/中村賀津雄 )、雲がちぎれる時(監督・五所平之助、主演・佐田啓二/有馬稲子/仲代達矢/倍賞千恵子)などは映画化されてもいる。だが現在、田宮の作品は文庫本でさえ読むことができないから、知る人もないのは無理からぬ話であろう。

 1911年生まれの田宮虎彦、来年になれば生誕100年をむかえるが、このほど長編歴史小説寛永主従記』(明治書院、1890円)が刊行された。(http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d.html/ref=aw_mp_1/?a=4625654130&uid=NULLGWDOCOMO

 田宮はもともときびしい運命にもてあぞばれながらも、懸命に生きる人間の姿を冷静沈着な文章で描く作家だが、この作品も例外ではない。封建時代にあって絶対的な主従関係のなかで精一杯生きぬいた男の姿を骨っぽく描いている。

 本作品は1952年(昭和27年に左派社会党の機関紙「社会タイムス」(編集局長・青野季吉)に連載されたものである。連載小説にありがちな冗長さや緩みがまったくみあたらない希有な作品といえる。いままで単行本にならなかったのが不思議というほかない。

 作品の舞台は江戸時代の初期、「会津騒動」が題材にした歴史小説である。会津藩主・加藤家の家老である堀主水は、先代藩主の嘉明の死後、子の明成にも忠義をつくそうとするのだが、もともと主水にふくむところのある明成にとっては、忠言がいちいち意にそぐわない。

 明成からは疎まれてゆく主水は、臣下としてどうすれば明成をいさめることができるのか。自らの一命をかける心づもりで手をつくすが、主水の思いとは裏腹に、かえって明成に冷遇されてゆく。

 とうとう主水は主従関係を断ち切ろうと覚悟、一寸のゆるぎもない綿密な計画をもとにして一族もろともに脱藩する。主人にひきいられた300人あまりの一族は、整然とした行動で城下をぬけだす。まんまと脱藩に成功した主水の一行が鶴ケ城の天守にむかって鉄砲をしかけ、三度筒音をひびかせるシーンなど、主水一族の決意表明をみる思いがして圧巻である。

 主水に、まんまと脱藩された加藤明成は怒り狂い、たとえ藩を失おうとも捕らえて死罪にしてやると執拗に追手をおくるのだが、姿をくらました主水のゆくえはわからない。

 先代の加藤嘉明の信頼厚かった主水がなぜ城下をぬけだしたのか。明成がなぜ主水を疎ましく思ったのか。物語の進展とともに明らかになってくる。主人公の心の襞(ひだ)が克明に描かれている。

 物語の背後には封建体制のなかでの主君と家臣の忠節と利害、父子の愛憎、幕藩体制の権力構造があり、そういう意味でもきわめて骨太な構成になっている。

 主水一族は2年あまりも逃げつづけたが、最後は紀州藩にとびこみ、明成が武家諸法度に背いている事実をもって幕府に上訴するという手段に出るのだが、将軍家光の「主をないがしろにした助けては、世がみだれるわ」という一言であしらわれ、身柄を会津藩にひきわたされる。

 当時、旧豊臣派の大名をつぎつぎと取りつぶしていた幕府は、ここでは武家諸法度にそむいていた明成に眼をつむり、主水をみごろしにした。

 ところが……。明成はながねんの宿願を果たして、主水を獄門にしたが、それがもとで、自己崩壊して藩主の座を投げ出してしまうことになる。幕府のしたたかさが浮き彫りになるのである。

 田宮虎彦は、この作品で、時代というものに肉薄して、翻弄される人間の姿をくっきりと浮かびあがらせている。 最初から最後まで息もつかせない物語の構成、作者にとって思い入れのある作品であったことがみててれる。

 最近、それほど必然性も感じられないのに人を斬る、チャンバラ小説、時代小説がやたら横行しているが、本格的な歴史小説はほとんど眼にすることがない。そんななかで田宮の『寛永主従記』を読んで、久しぶりに文学的な香が高い歴史小説のおもしろさを満喫した。



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2009-12-30
誰のいない海!

 海が観たい!

 だいたい年末の29日ごろになると、家人はそんなことを言い出す。海をみると元気が出てくる……と。そういわれてぼく自身も海がみたくなるからなんとも摩訶不思議なものである。

 かくして、早朝からクルマを走らせることになる。今年も昨日、29日の朝8時に出発となった。さいわい天気もよさそうである。ドライブにはもってこいの日和だった。

 16号を南下して福生、横田基地のヨコをすりぬけ、八王子、橋本、相模原、厚木、平塚……。まったく渋滞もなく、10時まえには、はやくも平塚の海に突き当たっていた。

 いつものように辻堂海浜公園の駐車場にクルマをとめた。烏帽子岩から江ノ島までがみわたせる湘南の海、風もなく穏やかに凪いでいた。

 誰もいない海……。そんな歌の文句もあったが、この季節、ほとんど人気はない。まるで烏の群れのように海辺を彩るサーファーの姿もほとんど見あたらなかった。

「海……というのは、なんどみても不思議……」という家人は、それこそ不思議な人種だなあ……と思いながら、半時あまりも砂浜をあちこちあるきまわっている不可思議な自分がそこにいた。

 海沿いの道路をいつものように江ノ島へ。弁天さまの参道はこの季節でもにぎわっていた。神社はすでにして初詣の参拝者をむかえる準備もととのっているようだった。

 昼食は今回にかぎり江ノ島ではなく茅ヶ崎までもどって、網元ナントカという店をえらんだのだが、開店前の店先にはすでに行列ができていた。かろうじて駐車場の空きをひとつみつけてもぐりこむというありさまだった。

 帰途、湘南大橋をわたりながら、「あと4日か……」と思った。新春の2日と3日、その界隈は箱根駅伝の舞台になるのである。2日の往路は第3区、3日の復路は第8区である。

 往路の3区・8区(21.5㎞)ともに海岸線を走がゆえに、海風の影響をうけやすくスタミナ勝負の区間となる。とくに往路の3区は前半のポイント区間として、各チームとも最近はエース級の選手を配してくる。

 年末に海を観て元気をもらい、明けて新年には箱根ランナーから元気をもらう。そのようにして一年は暮れてゆき、そして、また新しいつぎの年が明けてゆく……。いつも変わらぬ年の瀬である。



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2009-12-02
ああ、事業仕分け!

 流行語大賞のトップテンにはいった「事業仕分け」で、選手強化費が削られたとして、11人の五輪メダリストが東京都内のホテル記者会見をおこない、怒りをこめてきびしい財政事情をうったえた。

 記事をみて、ちょっとまえにノーベル賞受賞者や国立大学長先生たちがうちそろって、科学や学問の研究事業にかかわる「事業仕分け」へ異議を申し立てた。雁首をそろえてむずかしい顔をしている写真を思いだした。

 あのときは、なんともはや違和感をおぼえた。みっともないったらありゃしない。いったいナニサマだとおもっているの。エラそうに……。威張るんじゃないよ……と。

 第一に、今回の「事業仕分け」というものが何のためにおこなわれ、それが、なぜ必要なのか……という根本のところが、何一つわかっていない。そして、それが、国民からも注目され、そこそこ評価されているという空気も読めていない。

 政権交代なきままに、旧政権のながねんにわたる数かずの失政に、国民は蹂躙されてきた。天下りのよる政官癒着、カネの問題……、数え上げればかさに「浜の真砂」ほどあるだろう。

 新政権をもろに支持するわけではないが、ともかく旧政権の「官僚への丸投げ政治」をみなおして、国民の側にひきよせようとしている。初めての試みだから、いまはまだ手探り状態で、いろいろ問題があるのはしかたがない。だが国民は多くはその努力は評価し、期待も高まっているのは事実だろう。

 お役人の天下りのために、ペーパー・カンパニもどきの団体、名まえだけの公益事業団体が「浜の真砂」にようにつくられ、税金のながれが幾重にも錯綜し、なにがないやらわからぬように包みかくされ、あげくに利権をうみだして、多額の税金が食い物にされてきた。

 だから、それをきっちり精査して、政治と行政の過去の問題点をすべて国民の目のまえに明示する。「事業仕分け」というのは、そういう手続きであろう。だから、新政権の予算編成前に先だっておこなわれているのである。

 しかも「事業仕分け」そのものは、ある意味では残念というべきか。何の法的拘束力もないのである。強権を発動して、予算を削減しているのではない。いわば「検証」行為なのである。

 あのお偉い学者や大学のセンセがたはそこのところが、何もわかっていない。ただただ雁首そろえて、横一列にならび、ひたすら、自分の理屈をならべたてているだけ、ようするに自分たちだけよければいいという理屈である。いかにも視野がせまく、「旧権力の代弁者」になりはてている。がっかりさせられたのである。

 学問もスポーツもそして芸術もしかりである。その存在意義を説くのはきわて容易である。あの偉い先生も、そして五輪メダリストたちも、ある意味では、教科書的に総論をクソ真面目にのべたにすぎない。

 そのていどのことは事業仕分け委員の人はもちろん、国民にしても十分に理解していることなのだ。

 問題は錯綜した組織のありかたによって税金が消えていまい、先生がたの学問研究やエリート選手の強化育成に十分ゼニがまわらないという制度上のひずみにある。今回の「事業仕分け」は、そこのところにメスを入れようとしているのである。

 そこのところをきっちり解決しなければ、先生方がとうとうとのべた高邁な学問のゆくえも、メダリストたちのいうスポーツの振興も、お先真っ暗になってしまうのである。

 メダリストたちは、まあ、微笑ましといえるが、ノーベル賞をもらったほどの大先生たちの、あの大マジでの異議申し立て、知性の権化にしては、あまりにもオソマツというほかない。



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2009-11-06
テニス・エルボー




 人間というものはケッタイなものでんなあ。自分ながらつくづく呆れてしまいますヮ。

 性懲りもなくまたテニスをはじめてしまいました。2年まえの暮れにふくらはぎの筋肉が断裂して、およそ1カ月も苦しんだのに……です。喉もとすぎれば、ナンとやら……といいますが、まさにそれです。

 しかも、今回はちゃんとしたテニススクールに通いはじめたというからあきれるじゃありませんか。週1回、埼玉・西武球場のとなりにある西武ドームテニススクールに足を運んでいます。クルマなら自家からわずか15分のところにあります。

 それにしても……。西武球場前の界隈、いまやゲームのないときは猫の子一匹とおらない。狭山不動尊や山口観音の門前にある商店街もシャッター通りになっています。なんともさびれた街になってしまいました。かつてはユネスコ村なんかもあって、けっこうにぎわっていましたが……。

 2年ものあいだ物置に放り込んだままになっているラケットは、むろん、そのままでは使い物になりませんでした。張り替え屋さん、どこかにないかいな。まずはハローページをめくって張り替え屋さん探しからはじまりました。

 ようやくみつけたストリングスの専門店、気のよさそうなオヤジさん、客の年齢をよみとっての提案でしょう。テンションを45ポンドにせよ……というではありませんか。いままでは55ポンドだったので、しばし歯切れわるく逡巡していると「そんなもんでいいんですよ」と……。せっかくのアドバイスだからとおっしゃるとおりにしました。(これが、のちにとんでもないことになる)

 とりあえず基礎からやりまおす。入門クラスからスタートすることにしましたが、入門クラスとはいえズブの初心者なんてひとりもいません。みんな、そこそこやっている人たちばかりなのです。コーチは若くて明るい気質のおニイちゃん……。

 フォア、バックのストローク練習から始まり、ボレー、サーブ練習、最後はダブルスの試合……。初日にこれだけこなすのですから、とても「入門」なんかではありません。

 ストローク練習しているうちに右手の肘から下あたりの筋肉が痛みはじめました。インパクトの瞬間にラケットを握ると鋭い痛みが走ります。ようするに「テニス・エルボー」、テニス肘といわれる病ににかかってしまったというわけです。

 コーチに「腕が痛い」というと、彼はどこかからラケットをもってきて「それじゃ、これでやってみてください」

 言われたとおりに、そのラケットをつかってみると、なるほどインパクトの衝撃で、その瞬間だけ痛みがあるものの振り抜くことができる。軽くボールに合わせただけで、スイートスポットにさえ当たればちゃんと相手コートにとんでゆくのです。

 コーチが渡してくれたのはウイルソンの新しい厚ラケというやつでした。ぼくが使っているものより軽くて、ボールの弾みがはるかにいいのです。不思議なことにボレーが、サーブがビシバシ決まるのです。すっかり腕が痛いのも忘れてしまいました。

 どうやら、ストリングスのオヤジさんの口車にのって、ガットを緩くした分だけ、衝撃が腕のほうにきて、それで痛みはじめたというのが真相のようです。昔はそれでも何ともなかったでしょうが、寄る年波で躰にも微妙な変化があらわれていることの証しというものでしょう。 人間の躰というのはなんとも微妙なものです。

 年齢とともに用具もちゃんと年相応にすべきだという警鐘とうけとめて、思いきってラケットを新調することにしました。新しいパートナーはWILSON(ウィルソン) K ONE FX 122 というヤツです。

 重量はなんと245グラム、ガットを張っても270グラムぐらいです。ちなみに前につかっていたラケットを計量してみると390グラムもありました。なんと3分の1も軽くなっているのです。 テニスの用具も技術革新がすすんでいるようで、遅れているのは己であることを思い知りました。

 とにかくウデは怪しげなのだから、せめてラケットぐらいは一流でなくては……という思いで買ったのだから、それなりのシゴトをしてもらわなくてはな……と、新参のウイルソンに言い聞かせております。はい。



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2009-10-16
岩魚づくし!




 滋賀県多賀町……。
 滋賀県でもっとも古く由緒ある神社、多賀大社でしられ、鈴鹿山脈の麓、山あいのにあるちいさな町というイメージである。

 暮れなずむ時刻……。
 迎えにやっえきたマイクロバスは曲がりくねった山ぞいの道路をかなりのスピードでどんどんのぼっていった。10分、20分……。最初はあちこちに工場もあったが、やがて森林のあいだにさしかかるころ、あたりは闇につつまれてしまった。

 道路の左右におりかさなっていた集落をすぎるとあちこちに散在していた人家の灯りもなくなった。闇また闇のなかをマイクロバスのヘッドライトはきりゆらくようにどんどん突っ走る。いったいどこえ連れて行ってくれるのやら。不安になってきたのか同乗者のだれもが口をとざしてしまった。

 黙ってしまった乗客にかわって運転手がボソボソと話しはめた。自分はもともとは大工であったこと。50歳のときに大工をやめて、店をはじめたのだが、自分ひとりで周囲の山から間伐材をあつめてきて建築した。……

 岩魚料理の専門店で、養殖から料理にいたるまですべてひとりでやっている。岩魚の塩焼、刺身、甘露煮、南蛮漬、天ぷら、ムニエル、いわな寿司のセット、冬場になると鈴鹿山脈で獲れる猪鹿ちゃんこ鍋、ぼたん鍋など……。

 舗装道路がとぎれたのか、いつしかバスは砂利道を走っている。道なき道ではあるまいが、どうやら林道のような道にさしかかっているらしい。凹凸があるらしく、やたらと細かい上下動にほんろうされながら、店主の話を聞いているうちに、マイクロバスはログハウスのような家屋のそばで停まった。

 民家風の建物のわきをえぐるように渓流が走り、薄闇のむこうに小さな滝があるのがわかる。暗くてよくみえなかったが木造りの生け簀には岩魚がいるらしい。そこをぬけると納涼床のようなものがある。能舞台もどきに立派じゃないの……というと、「わたしが造った」と店主はまた自慢した。

 細長い座敷にはすでに膳がしつらえられていた。岩魚料理のコースである。岩魚の甘露煮がどかんとまえにあり、お通しのつもりか、ワカサギの飴炊き、岩魚の刺身は一匹分が一人前にになっているらしかった。それにしてもよほど、どでかいヤツだったのか。いくら食ってもなくならないほどのボリュームであったが、この刺身は適当に油がのっていて、なかなかのものであった。

 さらに……、下味をつけた鹿の肉と地鶏がテーブルにならんでいる。網焼きにして、ニンニク仕立ての味噌タレで食べるのだと……。

 ビールで乾杯してやがて、みんなが焼酎のお湯割りをやりだすころ、ふと後ろをみると店主が手網で生け簀から、なにやらすくっている。よくみると鰻ではないか。鰻をどうするのかと思っていると、やがて店主は大きな皿をもってやってきて、「はい、うなぎのバーベキューです」という。

 皿のなかで鰻はまだ動いていた。店主は蒲焼にするのとおなじように捌いて、一口サイズに細かく切りそろえてきたのだが、鰻は切られてもまだヒクヒク動いているのである。網焼きとおなじように小さな炉でやいて喰え……というのだが、動いている鰻を箸ではさんだのは初めてだった。

 あとは岩魚の梅酢シメ、さらには岩魚のフライ……。岩魚づくしもここまでくると立派なものである。

 だが……。
 もう、しばらく、岩魚は食いたくないな……。帰りも店主は同じマイクロバスでホテルまでおくってくれたが、ふとそんなふうに口のなかでつぶやいていた。



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2009-09-21
赤い花なら曼珠沙華!


いままさに曼珠沙華の季節である。

 今朝も463号バイパスは秩父方面ゆきのクルマで朝から大渋滞していたが、そのうち多くはおそらく曼珠沙華の名所としてしられる日高市の巾着田にも立ち寄ることだろうとおもいながらみていた。

 曼珠沙華……というと、つい「赤い花なら……」という歌が口を吐いて出る。

 赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
 阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
 濡れて泣いてる じゃがたらお春……


 長崎物語(梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲)の一節である。昭和14年の流行歌だという。ぼくが生まれるより昔の歌なのに、なぜぼくは覚えているのか? それは戦後になってはじまったNHKの「のど自慢」で唄われ、爆発的なヒットのなったせいだろう。だから幼いころのぼくの耳に、ごく自然にはいっていたのだろうとおもう。

 ところで「長崎物語」というのは、なんとも哀しい歌である。

 歌の文句に出てくる「お春」はイタリア人の父と日本人の母のあいだに生まれた混血児。いまからおよそ400年ぐらいまえ、江戸時代の始めのころの話である。お春は曼珠沙華で彩られた阿蘭陀坂の一角に「お春姫」と呼ばれるほどの裕福に暮らしていた。

 ところが、15歳になったころ、江戸幕府のキリシタン弾圧、鎖国令によって、国外追放となり、ジャガタラ(現在のインドネシア・ジャカルタ)に流され、過酷な運命に翻弄される。

 外国人の愛人になり、あげくには遊女に身をやつし、日本に帰りたくても帰れないわが身の不幸を嘆きながら、はるか海をへだてた異郷で72歳の人生をおえるのである。

 彼岸花、またの名を曼珠沙華……。葉はなく、地中からすくっと生えた一本の茎の先端で深紅の花が咲く。いかにも鮮やかな紅だが、どこかうら寂しく眼にうつるのはなぜか。

 ぼくたちは昔から「手腐り花」だと教えられ、絶対に手に触れてはならぬと教えられてきた。事実、毒性のある植物で、食すれば吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたるという。

 田んぼの畦や墓地におおいのは理由がある。田んぼを荒らすモグラや野ネズミ、あるいや虫除けに、この彼岸花がつかわれた。墓地におおいのは、昔は土葬だったからで、埋葬した死体を動物が掘り起こさないように、あえて彼岸花を植えたというのである。

 時代が移り、彼岸花のそんなマイナスイメージは、すっかりなくなったようだが、ぼくがいまひとつ馴染めないのは、ひとつには死人花とか地獄花とかおしえられてきたこと、さらには「長崎物語」の哀しいイメージのせいだろう。

 彼岸花には「赤」だけでなく、「白」さらには「黄」のタイプもあるようだ。今朝たまたまとおりかかった丘陵地の土手で「黄色」の彼岸花をみつけた。黄色い彼岸花はショウキズイセン(鍾馗水仙)とよばれる変種だという。



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2009-08-25
ベルリン世界陸上 女子マラソン観戦記

 ベルリン世界陸上の掉尾を彩る女子マラソン、テレビでとっくりと観戦した。

 世界陸上のマラソンコースは、通常の「ベルリンマラソン」のコースとちがい、まさにベルリンの名所めぐりというべき行程だという話だったが、ブランデンブルク門をスタートしてゴールする周回コース。レースのゆくえとは別に、とっくり市街観光も堪能させてもらった。

 真夏のマラソンゆえのことだろう。フタをあけてみると女子もまた前日の男子とおなじように世界のトップクラスは出てこなかった。みんな秋からはじまる高額の賞金がかかるマラソンレースをねらっていて、真夏でシンドイだけの世界選手権などには出てこないのである。

 ラドクリフもヌデレバもディタもミキテンコもいなかった。さらに日本では実力、実績ナンバーワンの渋井陽子がケガで欠場してしまった。

 直前になって主力不在で大混戦の様相、このような弱メンでメダルに手が届かなくては日本の女子マラソンにもはや前途はないとみて、今回のレースで将来を占いながら、観戦していた。

 路面温度は38度をこえるという暑さのなかでレースははじまったが、予想したとおりスピード勝負のレースにはならなかった。5㎞のラップが17:40というから、これでは2時間30分をこえてしまう。超スローペースになったのはひとえに中心不在のせいである。

 トップ集団は30人ぐらいの大集団でたんたんとすすむ。日本の4選手はみんなトップ集団からこぼれおちることもなかった。だが、同じようにトップ集団にはいっていても、尾崎好美、加納由理の2人と赤羽有紀子、藤永佳子の二人では、はっきりと明暗が分かれた。

 尾崎と加納は前半、集団のどまんなかにはいって、外国人選手にくらべれば背の低いせいもあるが、ほとんどどこにいるのかもわからない存在だった。ムダなエネルギーを使わないようにして、力を温存していたのである。

 赤羽と藤永は出入りの激しいレースぶりだった。藤永は途中でひとたびトップ集団から置いてゆかれそうになった。とくに前半はトップのペースがあがると、じりじりと遅れて集団からこぼれ落ちそうになる。位置どり、反応のしかたが悪いのが眼についた。

 意外だったのは赤羽有紀子である。日本人のなかではトップランクの期待がかけられていたが、結果的にはまったく躰がうごいていなかった。(後に知るところでは20㎞あたりから脱水症状にさいなまれていたらしい)

 5㎞までは集団の向かって左側(歩道より)の前方につけていて、いい位置どりだなあ……と思っていたが、10㎞すぎからは、集団の後方にさがってしまい、先頭がペースアップするだびに、じりじりと遅れ出す。集団の動きにまったく反応できない。動きが鈍いというほかなかった。離されると追っかけて、また集団にもどるのだが、しばらくするとまた離される。そういうことを繰り返していてはエネルギーの消耗がはげしくなるのはあたりまえのことである。

 藤永と赤羽の走りは、集団のなかでひたすらエネルギーの温存につとめている尾崎と加納と好対照をなしていた。

 かくして期待の赤羽は30㎞手前で、湯だったようになり、全身から力がぬけてしまった状態、まるで夢遊病者のように躰が浮きはじめてみるみるうちに失速、彼女のレースはそこでおわってしまった。

 潜在能力はあるのだがマラソン経験も未熟で、初の国際マラソンである。渋井の欠場で期待を一身に背負ったゆえの気負いもあったのだろう。さらに8月には軽度だが足を痛めていたとも聞く。

 さらに暑さのせいもあったかもしれない。惨敗の原因はわからないが、マラソンというのはデリケートな競技だなあ……とあらてめて思ってしまった。

 勝負どころでは藤永も遅れ、最後に中国2人、エチオピア、日本2人がのこり、尾崎が果敢に仕掛けて、最後は中国、エチオピア、日本のメダル争い。40㎞手前では中国の期待の新鋭・白雪と尾崎が抜けだしてマッチレースとなった。

 勝負はブランデングブルグ門を目前にしたのこり2㎞あたりで決した。中国の天才ランナー・白雪がスパートをかけると、尾崎にはもう追う余力はなかった。最後の勝負どころでは20歳の若さがモノをいったというべきか。

 敗れはしたが尾崎好美は大健闘したといっていいだろう。持ちタイムからみて日本人4人のなかでは上位にきて当然だが、地味で目立たない存在だっただけに、メディアはまったく注目していなかった。彼女の快走は、そういうメディアのありかたへの反逆というものであろう。

 テレビを観ていて、ちょっとおもしろい光景だとおもったのは、30㎞すぎだったとおもうが、尾崎が給水所でスペシャルドリンクを取り損ねた。

 そのときである。給水所にいた男がドリンクボトルをもって猛ダッシュ、たちまち追いついて並走、かれは尾崎に追いついて手渡したのである。かくして尾崎は無事に給水することが出きたのだが、尾崎にドリンクをとどけたのが、男子3000障害に出場した岩水嘉孝だったという。女子であるとはいえレース中のマラソンランナーに追いつくのは至難の業である。

 試合を終えた日本人選手はマラソンのサポートに回っていたらしい。岩永は予選で落選したが尾崎の日本人初のメダル獲りに、みごと貢献したといういみで、讃えられていいだろう。さすがは箱根(順天堂大時代は箱根駅伝のエースだった)で名を馳せたランナーだけのことある。



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