植島啓司の新著『賭ける魂』(講談社現代新書)は、おもに競馬を素材にしてギャンブルを哲学的にかたる希有な書である。
ギャンブルは人生そのものではない。しかし人生に必要なものはすべてギャンブルが教えてくれた……と、著者はみずからの人生に照らし合わせながらかたるのである。
たとえば実際の生活でおこったら眼もあてられないようなことが競馬ではしょっちゅうおこる。運をのがしたり、運にうらぎられたとき、ぼくたちはどのように対処すればいいかもギャンブルはおしえてくれる……と。
著者は宗教人類学者にして競馬をはじめ、あらゆるギャンブルにも通じている。世界のギャンブルの修羅場をくぐってきた経験がいかんなくいかされて、読み物としてもなかなか興味ある内容になっている。
さすがに宗教人類学者らしく、ギャンブルをめぐる人間の「心」に深く踏み込んでいるところが最大の読ませどころだろう。
たとえば「人間は自分以外の力を必要とする」と言い、「何かを信じても勝てるとはかぎらないらないが、何かを信じないで賭ける人間はほぼ百パーセント負けてしまうのである」というところなど、いかにも宗教に関わる人間の真骨頂というべきか。
最も興味深かったのは、日本人は「賭け」というものかんして、きわめて心がせまいという皮肉めいた指摘である。あまりにも「勝った」「負けた」にこだわりすぎる。ゴルフにいっても、コンサートにいっても、レストランで食事をしても、応分の費用がかかるのに、どうしてギャンブルの負けにこだわるのか……と疑問を投げかける。その裏で、ギャンブルを罪悪とみる風潮をあざ笑っているのであることは明らかである。 ギャンブルは勝ち負けではない……とまできっぱり言いきる。勝ち負けばかりにこだわらないで、もっと「賭け」そのものを楽しむべきだという論旨には説得力がある。
商売柄、おもしろいとおもったのは、ヘミングウエイの『移動祝祭日』の考察である。競馬好きの人間には愉しい小説である。同作品はヘミングウエイの遺作であるが、出版されるまえに著者本人が自殺してしまっている。 作品の舞台はヘミングウエイ若かりしころのパリ、小説が売れないで、夫婦で競馬三昧にふけっていた不遇時代が描かれている。
文豪といわれ、世界的に知られるヘミングウエイが、なぜ貧困のどんぞこにあったパリ時代を回想するような作品を遺したのか? おそらく……。ヘミングウエイにとっては、功成り名を遂げた現在より、赤貧のパリ時代、競馬だけが救いだった日々のほうが、人生で最も幸せだったのではないか……と著者はいうのである。
競馬好きならばこそ、知る人ぞ知る。なかなかおもしろい指摘で、、うなづけるものがる。 著者には『競馬の快楽』(講談社現代新書 1994年刊)という作品があり、本作はいわば続編というおもむきだが、ギャンブラの「心」をえぐる風変わりなギャンブル書としておもしろく読んだ。
0 コメント:
::コメントを投稿する::