京都の庶民の側からこの池田屋事変をみると、なんともやは無粋な出来事というほかなかった。この日は祇園祭の宵宮にあたっていた。事変は京都市民の最大のたのしみをぶちこわしたのである。
当時、尊攘激派の志士たちは祇園、三条、木屋町界隈、下河原あたりの茶屋や町屋に潜伏していた。かれらは御所に火を放ち、混乱に乗じて松平容保らを暗殺し、天皇を奪おうともくろんでいた。
とてつもない、その陰謀は、志士たちの連絡係をつとめていた古高俊太郎の捕縛によって発覚した。古高は四条小橋付近に店をかまえ商人に化けていたが、武器・火薬をあつめているのがきっかけて発覚してしまったのである。
古高がとっつかまってしまったので、志士たちは、その善後策をどうするか相談するために池田屋に集結していたところを襲われたのである。
志士たちは相当泡を食っていたものと推察される。宵宮の雑踏すら念頭になく、迂闊というほかない。しかし、これを急襲した新選組は実に用意周到で、この祭りを最大限に利用したのである。
新選組の隊士たちは、何食わぬ顔の平装で壬生の屯所を出発し、目立たぬように数人ずつに分かれて町にはいり、四条の町会所に集結して武装した。かれらは京都守護職預かりという立場ゆえに、京都の街の自治組織を自由に利用できる立場にあったのである。
新選組の隊士は二手に分かれて池田屋に切り込んだが、総勢にしてわずか三〇数人にすぎなかった。
だが、池田屋の周囲を守護職の会津藩、京都所司代、一橋、彦根などからくりだしたおよそ三千の藩兵たちが、取り囲んでいた。三条から四条を、武装した兵たちが幾重にも包囲しており、志士たちは袋のネズミだったのである。
まるで市街戦というべきで、志士たちは逃げおおせることはできなかった。テレビドラマなどでは新選組の活躍なかりが目立っているが、実際は幕府側が総力をあげた大捕物だったのである。
むろん山本覚馬も出陣している。そして翌朝、京都にのぼってきていた佐久間象山のもとにおもむき、さっそく、その顛末を報告しているのである。
Takehisa Fukumoto's essay and column studio
2013-03-10
真説・池田屋事変
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このBlogは小説書きの福本武久が「京おのこ」としてmixiにアップしている日記を再録したものです。
筆者が「見たこと」「聞いたこと」「考えたこと」を備忘録がわりにランダムに書き記してゆきます。自身の書く小説の舞台裏だけでなく、30年間追っかけている「駅伝・マラソン」のこと、仕事をはなれて、「競馬」や「競艇」についてのトピックやエッセイなど……。
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