2012-04-12
川崎尚之助、山本覚馬、そして大木仲益のこと

昨年の6月、2013年のNHK大河ドラマが「八重の桜」と題して、新島襄の妻である八重の生涯をとりあげると発表されたから、八重の最初の夫である「川崎尚之助」についての問い合わせが数多く、わがホームページのアドレスによせられています。

 八重を主人公にした小説作品『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)と『新島襄とその妻』(新潮社刊)、いずれも30年前の作だが、その作者であるからでしょう。

 小説作品だから人物造形はむろんフィクションですが、来歴や事跡については、当時できるかぎり調査した史実にもとづいています。だから、作品に書いたとおり、あれがすべてです…と、お答えすることにしています。

 川崎尚之助は、いまだ謎の多い人物です。今回の一連の大河騒動がきっかけで、謎の部分が史家によって明らかにされるのではないかと期待していますが、事実分からない部分が多いのです。

 川崎尚之助は但馬国出石藩の医師の子として生まれ、安政四年の秋ごろ会津にやってきています。 八重の兄山本覚馬がつくった藩校日新館の蘭学所の教授になるのですが、覚馬が自分の職俸から四人扶持を与えようとしたほどの惚れこみようでした。尚之助は山本家に投宿しるようになり、やがて八重と結婚するのですから、覚馬が江戸遊学中に知り合った人物とみていいでしょう。

 尚之助は洋書によって学理を講じ、さらに西洋式の銃法の鋳造、弾丸の製造法などの指導にあたり、覚馬とともに、会津藩の西洋式砲術の導入におおきな役割をはたしました。
 蘭学所の洋砲伝習科はやがて学校奉行からはなれ、大砲方として軍事奉行の配下になるのですが、終始、尚之助は教授人をつとめています。

 八重と尚之助の結婚は慶応元年(一八六五)ごろとみていますが、もとより当人同士の意思によるものではありません。尚之助はそのころ会津にやってきて、およそ八年たっていましたが、日新館の教授人であるものの、まだ藩士として登用されていませんでした。藩士の子弟の婚姻にはむろん藩庁の許可が必要ですから、藩籍をもたない尚之助と八重の結婚はふつうでは考えられません。

 二人の縁組みは当人たちのあずかりしらぬところで、意図的にしくまれていたと考えるほかありません。得がたい人材である尚之助を会津にとどめておくために八重を妻合わせたというのは、まったくありえない話でもないでしょう。

 とくに覚馬が京都勤番になってから、会津の銃砲について技術的にサポートできるのは、もはや尚之助しかおらず、かれの存在感がそれほど増していたことは確かです。二人の縁組には覚馬の影が見え隠れしており、二人の結婚は兄の意思でもあるとしたら、八重は一も二もなくうけいれたとみます。

 尚之助は八重とともに籠城戦を戦いぬき、開城の直前に脱出して会津を去ったとみていますが、、およそ一一年間にわたって会津の弱点というべき銃砲による戦略を、おもに技術者として支えつづけたのです。

 尚之助は蘭学のほかに、舎密術(理化学)の知識もあり、砲術の専門家であり、江戸では加藤弘之と並ぶ、新進気鋭だったというのですが、いったい、どこの誰に学んだのか。どこで覚馬と知り合ったのか。

 小説書きの小生としては、尚之助は従たる人物なので、あまり深追いはしませんが、その一点だけは長いあいだこだわりつづけていました。容易に謎は溶けだしてきませんでしたが、このほど八重をめぐる新書(8月刊)執筆(すでに脱稿)途上の資料漁りで、偶然にもいくらか糸口がみえてきました。

 接点が江戸だとすれば、覚馬が江戸にいたころの人脈に連なっているにちがいありません。覚馬が砲術修業した師は佐久間象山、江川担庵、下曾根金三郎、勝海舟、さらに『改訂増補山本覚馬傳』によると大木衷域のもとで蘭学を学んだとあります。

 ところが大木衷域なる蘭学者は存在しません。そこで大木という蘭学者を探しつづけ、衷域ではなくて、忠益あるいは仲益であるというところにたどり着きました。さらに加藤弘之の経歴を調べてみると、安政元年に蘭学者大木仲益のもとに入門したとあるのです。

 大木仲益(幼名:忠益)ならば米沢出身の蘭方医で、坪井信道に蘭学を学び、芝浜松町の坪井塾の塾頭をつとめていました。当時の兵学ブームに乗って、洋式兵法書や砲術書の翻訳の仕事も精力的にこなしております。仲益はほどなく坪井信道の女婿になり、薩摩藩に迎えられ、坪井為春と改名、島津斉彬の侍医になってゆく人物です。

 おそらく『改訂増補山本覚馬傳』の編者は忠益あるいは仲益の読みを誤認したうえ、さらに誤った漢字をあてた。よくあることです。

 尚之助はこの大木仲益のもとで同じ藩の加藤弘之とともに修業した人物とみてまちがいないでしょう。ペリーの来航以来、当時の蘭学者は砲術書などの翻訳がおもな仕事でしたから、かれも翻訳の仕事を通じて砲術を中心とした理化学を学んでいたと情勢判断します。

 そこらあたりも含めて、こんどの新書で、少し触れてあります。



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2009-11-06
テニス・エルボー




 人間というものはケッタイなものでんなあ。自分ながらつくづく呆れてしまいますヮ。

 性懲りもなくまたテニスをはじめてしまいました。2年まえの暮れにふくらはぎの筋肉が断裂して、およそ1カ月も苦しんだのに……です。喉もとすぎれば、ナンとやら……といいますが、まさにそれです。

 しかも、今回はちゃんとしたテニススクールに通いはじめたというからあきれるじゃありませんか。週1回、埼玉・西武球場のとなりにある西武ドームテニススクールに足を運んでいます。クルマなら自家からわずか15分のところにあります。

 それにしても……。西武球場前の界隈、いまやゲームのないときは猫の子一匹とおらない。狭山不動尊や山口観音の門前にある商店街もシャッター通りになっています。なんともさびれた街になってしまいました。かつてはユネスコ村なんかもあって、けっこうにぎわっていましたが……。

 2年ものあいだ物置に放り込んだままになっているラケットは、むろん、そのままでは使い物になりませんでした。張り替え屋さん、どこかにないかいな。まずはハローページをめくって張り替え屋さん探しからはじまりました。

 ようやくみつけたストリングスの専門店、気のよさそうなオヤジさん、客の年齢をよみとっての提案でしょう。テンションを45ポンドにせよ……というではありませんか。いままでは55ポンドだったので、しばし歯切れわるく逡巡していると「そんなもんでいいんですよ」と……。せっかくのアドバイスだからとおっしゃるとおりにしました。(これが、のちにとんでもないことになる)

 とりあえず基礎からやりまおす。入門クラスからスタートすることにしましたが、入門クラスとはいえズブの初心者なんてひとりもいません。みんな、そこそこやっている人たちばかりなのです。コーチは若くて明るい気質のおニイちゃん……。

 フォア、バックのストローク練習から始まり、ボレー、サーブ練習、最後はダブルスの試合……。初日にこれだけこなすのですから、とても「入門」なんかではありません。

 ストローク練習しているうちに右手の肘から下あたりの筋肉が痛みはじめました。インパクトの瞬間にラケットを握ると鋭い痛みが走ります。ようするに「テニス・エルボー」、テニス肘といわれる病ににかかってしまったというわけです。

 コーチに「腕が痛い」というと、彼はどこかからラケットをもってきて「それじゃ、これでやってみてください」

 言われたとおりに、そのラケットをつかってみると、なるほどインパクトの衝撃で、その瞬間だけ痛みがあるものの振り抜くことができる。軽くボールに合わせただけで、スイートスポットにさえ当たればちゃんと相手コートにとんでゆくのです。

 コーチが渡してくれたのはウイルソンの新しい厚ラケというやつでした。ぼくが使っているものより軽くて、ボールの弾みがはるかにいいのです。不思議なことにボレーが、サーブがビシバシ決まるのです。すっかり腕が痛いのも忘れてしまいました。

 どうやら、ストリングスのオヤジさんの口車にのって、ガットを緩くした分だけ、衝撃が腕のほうにきて、それで痛みはじめたというのが真相のようです。昔はそれでも何ともなかったでしょうが、寄る年波で躰にも微妙な変化があらわれていることの証しというものでしょう。 人間の躰というのはなんとも微妙なものです。

 年齢とともに用具もちゃんと年相応にすべきだという警鐘とうけとめて、思いきってラケットを新調することにしました。新しいパートナーはWILSON(ウィルソン) K ONE FX 122 というヤツです。

 重量はなんと245グラム、ガットを張っても270グラムぐらいです。ちなみに前につかっていたラケットを計量してみると390グラムもありました。なんと3分の1も軽くなっているのです。 テニスの用具も技術革新がすすんでいるようで、遅れているのは己であることを思い知りました。

 とにかくウデは怪しげなのだから、せめてラケットぐらいは一流でなくては……という思いで買ったのだから、それなりのシゴトをしてもらわなくてはな……と、新参のウイルソンに言い聞かせております。はい。



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2009-10-16
岩魚づくし!




 滋賀県多賀町……。
 滋賀県でもっとも古く由緒ある神社、多賀大社でしられ、鈴鹿山脈の麓、山あいのにあるちいさな町というイメージである。

 暮れなずむ時刻……。
 迎えにやっえきたマイクロバスは曲がりくねった山ぞいの道路をかなりのスピードでどんどんのぼっていった。10分、20分……。最初はあちこちに工場もあったが、やがて森林のあいだにさしかかるころ、あたりは闇につつまれてしまった。

 道路の左右におりかさなっていた集落をすぎるとあちこちに散在していた人家の灯りもなくなった。闇また闇のなかをマイクロバスのヘッドライトはきりゆらくようにどんどん突っ走る。いったいどこえ連れて行ってくれるのやら。不安になってきたのか同乗者のだれもが口をとざしてしまった。

 黙ってしまった乗客にかわって運転手がボソボソと話しはめた。自分はもともとは大工であったこと。50歳のときに大工をやめて、店をはじめたのだが、自分ひとりで周囲の山から間伐材をあつめてきて建築した。……

 岩魚料理の専門店で、養殖から料理にいたるまですべてひとりでやっている。岩魚の塩焼、刺身、甘露煮、南蛮漬、天ぷら、ムニエル、いわな寿司のセット、冬場になると鈴鹿山脈で獲れる猪鹿ちゃんこ鍋、ぼたん鍋など……。

 舗装道路がとぎれたのか、いつしかバスは砂利道を走っている。道なき道ではあるまいが、どうやら林道のような道にさしかかっているらしい。凹凸があるらしく、やたらと細かい上下動にほんろうされながら、店主の話を聞いているうちに、マイクロバスはログハウスのような家屋のそばで停まった。

 民家風の建物のわきをえぐるように渓流が走り、薄闇のむこうに小さな滝があるのがわかる。暗くてよくみえなかったが木造りの生け簀には岩魚がいるらしい。そこをぬけると納涼床のようなものがある。能舞台もどきに立派じゃないの……というと、「わたしが造った」と店主はまた自慢した。

 細長い座敷にはすでに膳がしつらえられていた。岩魚料理のコースである。岩魚の甘露煮がどかんとまえにあり、お通しのつもりか、ワカサギの飴炊き、岩魚の刺身は一匹分が一人前にになっているらしかった。それにしてもよほど、どでかいヤツだったのか。いくら食ってもなくならないほどのボリュームであったが、この刺身は適当に油がのっていて、なかなかのものであった。

 さらに……、下味をつけた鹿の肉と地鶏がテーブルにならんでいる。網焼きにして、ニンニク仕立ての味噌タレで食べるのだと……。

 ビールで乾杯してやがて、みんなが焼酎のお湯割りをやりだすころ、ふと後ろをみると店主が手網で生け簀から、なにやらすくっている。よくみると鰻ではないか。鰻をどうするのかと思っていると、やがて店主は大きな皿をもってやってきて、「はい、うなぎのバーベキューです」という。

 皿のなかで鰻はまだ動いていた。店主は蒲焼にするのとおなじように捌いて、一口サイズに細かく切りそろえてきたのだが、鰻は切られてもまだヒクヒク動いているのである。網焼きとおなじように小さな炉でやいて喰え……というのだが、動いている鰻を箸ではさんだのは初めてだった。

 あとは岩魚の梅酢シメ、さらには岩魚のフライ……。岩魚づくしもここまでくると立派なものである。

 だが……。
 もう、しばらく、岩魚は食いたくないな……。帰りも店主は同じマイクロバスでホテルまでおくってくれたが、ふとそんなふうに口のなかでつぶやいていた。



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2009-04-07
芝。増上寺の徳川家のお墓



 芝・増上寺の大殿の裏側に徳川家のお墓(霊廟)がある。このところ花の季節にやってきているが、いつも門がかたくとじられており、雰囲気だけしかうかがえないのだが、今年は門がひらかれており、おりから公開中であった。



 門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものだという。写真はmixiの掲載制限ゆえにのっけることができないが、左右の扉(青銅)には葵紋が五つづつ配されており、両脇には昇り龍・下り龍のすがたが鋳ぬかれている。なかなか立派なものである。
 門から一歩ふみいれると、正面右に二代秀忠、左に六代家宣の宝塔があり、左右に三つづつ宝塔がならんでいる。右側は七代家継、九代家重、一二代家慶、左は14代家茂、静寛大院和宮、将軍生母側室等である。




 もともと増上寺の境内はきわめて広大なもので、現在のプリンスホテルなんかも敷地内であった。徳川家のお墓も南北にひろがっていたという。現在の墓所は土葬の遺体を昭和33年に掘りおこして、それぞれ荼毘にふし、改葬したものだという。








 旧国宝の唐門をはじめ、あちこちにあった宝塔も寄せ集めて、現在のせまい墓所にとじこめられたというわけである。将軍さまたちはさぞ窮屈なおもいをしていることだろうなとおもった。

 「天璋院篤姫」に登場した家茂と和宮(静寛院)の宝塔はもともと夫婦そろって並んでいたというが、改装後の現在も両人の宝塔は向かって左側の列でとなりあわせに配されている。ただし家茂のは石塔だが、和宮のものは青銅製になっている。



 和宮が死んだのは明治10年であり、明治になってからつくられたからだという。同寺の印刷物によると、明治になってつくられた墓はすべての点で将軍の墓より荒削り、不揃いになっている……という。











 それはひとえに明治維新という大転換のせいによるものだが、墓まで手をぬくとは薩長もいかにも料簡がせまいなあ……と、陰口、そしりをうけてもしかたがなかろう。

 それにしても……。せまい墓所にとじこめらた将軍さまたち。世が世なら……と嘆いているのだろうか。



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2008-09-23
からりと晴れて ドライブ日和!

 秋分の日……。おりから今年いちばんの秋日和である。(ただし朝のうちだけだったが……)こんな日はきまって早起きしてしまう。たぶん生来の貧乏性なのだろうな。

 朝のランニングもひときわ心地よかった。真夏から秋口にかけて、暑さののこっていた先週ぐらいまでは、走りが重かった。脚がうごいていなかった。今朝は不思議と躯がかるかった。

 ランニング途上でふとおもいたった。奥多摩あたりまでゆくか。かくして朝食後、これといってあてもなくクルマをだした。青梅から奥多摩へ……。朝はやいせいだろう。渋滞もなかった。奥多摩湖を半分ほど周回して、ライダーたちが群れて走るあの奥多摩周遊道路へ……。

 エアコンをきって、窓をあけて走る。いつも聴いているビーチボーイズのCDのうち、「僕らのカークラブ」をえらんで、おもいきってボリュームを少しあげてみた。まあ、そんなことができるのは山間の道路だけだろうな。

 都民の森の交差点をすこしすぎたあたりからだったろうか。おやっと、おもわず眼をみはるようなドライバーのうしろについた。

 車種はたしか日産のフェアレディー。まるで道路を這っているかのように、なめらかにすべってゆく。ゆっくりはしっているようだが、実際はそうではなくて、気がつくと車間がじりじりとひろがってゆくではないか。

 よくみるとカーブでもほとんどブレーキを踏まない。それでいてセンタラインを踏むこともなく、キッチリをコーナーをすりぬけてゆく。

 ブレーキランプが故障しているのではないか? 最初はそんなうたがいをもったが、そうではなかった。停車すべきところではちゃんととまる。

 ゆっくりとはしっているようだが、のろのろしているというのではなくて、行くべきところではサッ……とすばやく動くのである。

 奥多摩周遊道路から檜原街道へ……。武蔵五日市駅を左手にみて秋川街道へ、カーブの多い峠道はつづいたが、フェアレディー氏のハンドルワークには寸分のゆるぎもなかった。

 ホレボレするような水際だった運転にためいきをつきながら、ぼくはすっかり夢中になっていた。かれのすりぬけた車軌をなぞり、ブレーキをふまないコーナリングを実習していたのである。そして気がつくと、いつしか青梅市内までもどっていた。

 フェアレディー氏とは河辺あたりで別れたが、かれにしてみれば、きっといいめいわくだっただろう。うしろにぴったりつかれて、きっとウザイヤツ……と舌うちしていたにちがいない。



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2008-07-29
なんのかんのと北京オリンピック

 良きにつけ、悪しきにつけ、いろいろ何かと話題沸騰している北京オリンピックも、いよいよ10日後にせまってきた。今回の開催地は同じアジアだから、時差とは無縁、おりから、ちょうど日本列島は夏やすみのまっただなか……。

 CO2がどうのこうのといっても、オフィスはともかく、家庭ではクールビズなんて無縁、ECOなんてまるで考えてないだろうから、冷房のよくきいた室、テレビの前でビールでも飲みながら、どなたさまもにわかにスポーツ評論家、コメンテーターになって、気温35度なんてぶっとばずほどにヒートアップしてもりあがることだろう。

 かくいうぼくも、また例外ではないだろう。おそらくmixiでもやたらとにわかスポーツコメンテーターがふえそうだから、専門(?)の陸上長距離・マラソンいがいはコメントしないことにしよう。

 昨28日、その北京五輪ににのぞむ日本選手団の結団式と壮行会が都内のホテルでひらかれた。選手団主将の鈴木桂治と旗手の福原愛ちゃんがテレビ画面をかざっていた。

 今回の日本選手団は576人(選手339人、役員237人)である。28競技にうちバスケとハンドボールをのぞく競技にすべて出場、前回のアテネをうわまわり、史上最多の選手団になるという。

 それにしても……。役員の数がすこし多すぎはしないか。競技役員だけではなく、個人種目の選手コーチやトレーナーなんかもふくまれるとするなら、これくらいになるのかもしれないが……。

 派遣選手団の規模をみるかぎり、ともかく日本はスポーツ大国であるらしい。選手のレベルは総じていまひとつだが、各競技団体は財政的にグローバルスタンダードをクリアしているから胸をはって世界に出て行くのであろう。

 同じ日、陸上競技の日本代表結団式も都内のホテルでおこなわれ、代表選手のうち選手33人と高野進コーチほかコーチ連が出席、陸連会長の河野洋平からハッパをかけれたらしい。

 その席上で男子短距離の朝原宣治(大阪ガス)と、女子3000m障害の早狩実紀(京都光華AC)が主将に指名されている。朝原と早狩はともに1972年うまれで、くしくも同志社大学では同級生である。

 学部こそちがうが、ぼくにとっては後輩にあたる……ということもあって、2人には心の応援をおくりたい。とくに早狩は中学時代から全国女子駅伝の京都の代表で活躍、駅伝時評子としてはとりわけ思い入れが強いのである。

 それにしても……。朝原も早狩もすでにして30半ばの年齢、若くはないがベストの戦いでテレビ観戦ファンの感動をもたらしてほしい……と願っている。



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2008-04-09
「くいだおれ」の閉店!

 大阪ミナミのシンボルともいうべき、あの電動人形「くいだおれ太郎」くんで知られる大衆食堂「くいだおれ」が7月に閉店するという。オープンが1949年だというから、60年の歴史をとじることになる。

「くいだおれ」は食堂ビルである。要するに、ナンデモアリの大衆食堂なのである。父ちゃん、かあちゃんがガキどもを連れて……。家族そろって歌合戦……ではなくて、常ひごろはめったにしない外食というものに繰り出すにふさわしい店、こどもたちをよびこむために店先に電動人形をおいたのである。

 当時は「食堂ビル」というのスタイルの店が流行していた。和食、洋食、寿司、麺類から甘党、喫茶……まで、なんでもござれ、いわばファミレスの走りである。当時としては斬新な発想で、外食というものが珍しい時代にあって、こどもたちのあごかれの的でもあった。

「くいだおれ」のほかにも道頓堀には「ドウトン」という店もあった。ビルのフロアごとに洋食、中華、和食と別れていて、好きなものを選べるという食堂ビル、ほかにもいくつかあったと思うが、いつしか「くいだおれ」だけになってしまっていたようである。

「くいだおれ」は団塊の世代とともにうまれ、日本の発展とともに歩んできたが、団塊の世代が定年をむかえるのと同じように、もはや、その使命と役割をおえたとみるべきである。食堂ビルという商法は、もはや時代にそぐわなくなった。閉店は時代の流れというものだろう。

 食堂ビル「くいだおれ」の閉店によって、「くいだおれ太郎」くんも定年退職する。しかし、あのキャラクターゆえに惜しむ声がしきりで、再就職先をめぐって、さまざまなに模索されているようだ。

 だが……。もはや使命をおえたのだから、あれこれと派手に引っ張り回すのはいかがなものか。60年の功績を称えるイベントはともかく、あとは静かな余生を送らせてやる道を考えてやったら、いかがなものだろう。



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2008-04-08
ビル・ゲイツさんよ! そろそろ大人の分別を!

 ぼくがパソコンを使い始めたのは、あの「Windows 95」が鐘や太鼓ではやしたてられて登場した1995年の秋からである。最初のマシンはDELLのノートパソで、ワープロ専用機で遊んでいたパソコン通信(NIFTY)の通販で買った。

 Windowsはその後「98」になり、「Millennium」になり、「XP」になり、「Vista」になったが、「XP」まではバージョンアップのたびにマシンも買い換えてきた。

 来年には「Windows 7」なる新しいOSが発売されるという。MSの会長であるあのビル・ゲイツが発表したというのだからまちがいなかろう。

 それにしても……。「Vista」が出たのは、ついこのあいだではなかぅたか。こんなに早い変わり身をみせるのは「Vista」がダメだということなのか? モデルチェンジしなければ商売にならないというのは理解できるとしても、いったいどういうことなのだろうか?

 ぼくは現在もいぜんとして「XP」を使いつづけている。文章を書いたり、ホームページをつくったり、写真を加工したり、インタネットをやったり……。馬券や舟券、車券、サッカーくじtotoを買ったり……。

 このていどならば、「Vista」なんて必要はない。いまの「XP」で十分ことたりているのである。ところが「Windows 7」が出るというのならば、こんどマシンを買うときは「Vista」を素っ飛ばしてしまうことになる。
 「Windows 7」が出ても、ぼくはいまのマシンに支障がないかぎり、「XP」を使いつづけたいと思っている。何ら不自由を感じていないのだから、買い変える必要なんかまるでないのである。

 しかし売る方としては「Windows 7」を出せば、「XP」のサポートを打ち切ってしまうだろう。新しいOSを出すねらいは、まさにそこにあるのだから……。

 Mycrosoftの商法で最も困るのは、新しいOSを発売すれば、もう古いOSは店頭から引き上げてしまうことである。たとえば「XP」のマシンを使っていたユーザーが新しいパソコンに買い換えようとすれば、もう「XP」登載のマシンはないということになる。否応なしに新しいOSのマシンを買わされる。

 OSの機能が成熟しつつある現在、そろそろ、いくつかのOSを併存させてはどうなのだろうか?、たとえば「Windows 7」を発売したとしても、「XP」も「「Vista」も販売しつづける……というふうに。

 否応なし……、選択の余地なし……、というのは横暴というものではないだろうか。風雲児・ビル・ゲイツはいったい何歳になったのかな。いつまでもこどもでいないで、そろそろ大人の分別を発揮してほしいものである。



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2008-04-07
オソマツすぎる! 会津若松「鶴ヶ城」クイズ事件の顛末!

 最近のテレビ番組は、要するに、おもしろおかしければ何をやってもいい……という風潮が露骨に蔓延していて、まるで歯止めというものがなくなってきたようだ。バラエティはもちろん、クイズ番組すらも例外ではない。出題の内容はもちろん、解答で面白おかしくオチをつける手法が流行っているようだ。

 たとえばTBS系のクイズ番組「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」でおこった前代未聞の椿事はその代表的な例というものだろう。最終的にはTBSが会津若松市の抗議をうけて、謝罪することでオチ……となりそうだが、なんともバカバカしくて話にもならない。

 すべては番組制作者の無知と相手を思いやる心遣いの希薄さ……ということにつきる。事のおこりは2月16日放送の同番組で、「旧幕府軍が若松城(鶴ヶ城)を明け渡した理由は何か?」という問に対して「糞尿が城にたまり、その不衛生さから」というのを正解とした……ところにある。

 これでは会津若松の人たちはがまんならない。烈火のごとく怒る気持ちはよくわかる。幕末の会津戦争では、藩士だけでなく、その家族たち、女性も老人もこどもすらも城に籠って戦った。全員が城とともに討ち死にする覚悟だったのである。

 会津の人たちはそれゆえに現在も戊辰(ぼしん)の会津戦争への思い入れには格別なものがある。たとえば会津の郷土史家はあの戦争で命を落とした藩士を一人残らず調べあげている。誰がどこで戦って死去しのか。克明にまとめた冊子もあるほどである。

 拙著『会津おんな戦記』を書くとき、取材のためになんどか会津に出向いたが、郷土史家のある人から「あなた、会津人にとっては戦争というのは、どれを指しているかわかりますか?」とたずねられたことがある。

 会津のひとたちにとって、「戦争」というのは「太平洋戦争」のことではない。幕末から明治に移るあの「戊辰戦争」のことをいう。かれらは世代が代わっても鶴ヶ城の籠城戦を忘れてはならないものとして今なお記憶にとどめているのである。

 鶴ヶ城はなせ落ちたか? 糞尿がたまったから……。バカ言っちゃいけない。最新式の洋式大砲で、一日に2000発も撃ち込まれたんだよ。藩兵だけでなく、女・こども・老人にまで死傷者が続発した。たまりかねて藩主の松平容保が降伏を決意したのだが、布という布はみんな繃帯につかわれていて、白旗をつくる白い布さえないという悲惨なありさまだったのである。

 糞尿よりの屍だらけだった……っていうけど、それより場内の井戸という井戸はすべて屍で埋まっていたんだ。糞尿がたまったたから……なんて、笑いものにする理由だけをかすめとるのは言語道断というものである。

 合津若松市の菅家一郎市長がTBSに抗議文を送ったのは当然のなりゆきというものである。抗議文の全文は「会津若松視市長 菅家一郎ブログ」に掲載されている。

 TBSは謝罪放送は8日の午後0時53分ごろ、番組の間にアナウンサーが謝罪文を読み上げる予定だというが、おそらく「やればいいんだろう。やりますよ……」というような通りいっぺんの素っ気ないものなのだろう。

 番組担当者の歴史感覚の希薄さは救いようもない。かれらは会津の人たちが城に籠もって死ぬまで戦おうとした戊辰戦争なんて全く知らないのだろう。相手の立場に立ってものごとを考えない。ただ笑うネタだけを探している。

 それって、弱者切り捨ての発想で、差別やイジメの原点じゃん!



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2008-04-06
昨日ある病院でひそかに集音した怖い話 !

 はい。こちら処置室ですが……。えっ、救急車が15分後に着くってですか……。そんな、わたし聞いてませんよ。えっ……。ちょっと待ってください。
 ねえ、誰か、救急車……、聞いてる?
 M先生じゃないですか。
 ええっ、受けると言ったの? M先生……
 そうらしいです。
 そう。まったくしょうがないわねえ。
 お待たせしました。聞いているそうですから……。15分後ですね。お待ちしています。
 さあ、忙しくなってきた! ちょっと、あなた、これ、Kさんの点滴の用意、お願いね。わたしはストレッチャーもってこなければならないから……。
 はい。点滴ですね。Kさんって、2週間まえまで入院してらしたあのKさんですか?
 そう。あのKさんなのよ。
 お悪くなったんですか? あれほどお元気で退院なさったのに……
 ちょっとワケありでね。
 何ですか? それって……。
 それがねえ、外来でこられたときに違う薬を出しちゃったらしいのよ。
 そんな!
 シッ……、大きな声出さないで。



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2008-04-05
サクラの季節にヤスクニ問題!

 靖国問題というのマスメディアのつくった乱暴なことばで、靖国神社をめぐるさまざまな問題をすべて指している。かって合妃の問題も「靖国問題」といわれ、首相の参拝についても「靖国問題」といわれてきた。

 そういう靖国問題について、コメントするつもりはない。靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」があるが、その上映がとりやめる映画館が相次いでいる。そういう「ヤスクニ・モンダイ」についてちょいと考えてみたい。

 同映画を観たわけでない。だから、いったいどういう内容なのかはいまひとつよくわからない。中国の李纓(リ・イン)監督が約10年間にわたり、軍服を着て参拝する人たちや追悼集会など終戦記念日における靖国神社の風景や、靖国刀を作り続ける刀匠を追うなどの画面構成によって視聴者に何かを問いかけるドキュメンタリーらしい。

 週刊誌の過剰反応もあったが、このたびの騒動がもちあがったのは、自民党の若手議員たちが試写会を求めたこと……ことにある。

 上映を中止する映画館が相次いだのだが、映画館側の言い分は、もし問題が起きると、映画館が入居しているビルのテナントに迷惑をかかるというものである。

 何で迷惑がかかるのか? どういう質の迷惑なのか? 突き詰めてゆくと、その裏には何らかの勢力による恫喝まがいの圧力があったことは容易に想像がつくだろう。いわゆる「触らぬ神に祟りなし」というふうで、いかにも日本的な問題の処し方といっていいだろう。

 試写会のあと一部のメディアから反日的だという声があがり、一部の政治団体が上映中止をもとめる動きがあったらしいが、それもひとつの考え方だから、とやかくいう問題ではない。上映に賛成するも、反対するも、いずれにしても自由である。

 しかし事は上映をめぐる賛否ではなかろう。まず映画を観なければならない。観たうえで、その内容について、喧々囂々の議論をやればいいのである。もし上映すらも実力で阻止するという向きがあれば、それは憲法の保障するところの言論の自由に触れる。

 試写会を求めた自民党の稲田朋美議員は、今になって事前検閲だとか表現の自由侵害などと言われているが、自分の意図とはちがう。表現の自由は尊重されるべきだ……とのべているのだが、騒ぎが多くなって慌てているのだろう。

 ほんとうにそのように思っているのなら、ぼやぼやしてないで上映が実現するように積極的に動くべきだろう。それが火をつけた本人として当然の処し方というものである。

 配給・宣伝を担当するアルゴ・ピクチャーズが4日に明らかにしたところによると、すったものだのあげく、東京都内の1館を含む全国8館が、とりあえず上映することになったという。

 アルゴ側もいまだ妨害行為への懸念から劇場名については明らかにしていない。あちこち調べるたところによると、現在のところ上映がきまっているのは大阪の「第七芸術劇場」、京都の「京都シネマ」というところ。東京はどこになるのかいまのところ不明だが、上映がきまったらぜひとも駆けつけようと思っている。



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2008-04-02
狭山湖と石原慎太郎

 時計をみまちがえて今朝は午前5時に起きてしまった。早起きは3文の得……というわけでもないが、ランニングの途上、ふと思い立って狭山湖まで足をのばしてみた。傍らの道路はクルマでときおり通りかかることがあるが、湖水ちかくをジョッグで流すのは久しぶりである。

 狭山湖は東京都の水がめとして1934年というから、ぼくらが生まれるよりはるか昔に完成した人造湖で、正式には「山口貯水池」という。所沢市にあるが東京水道局が管理している。

 桜の名所としても知られており、桜の開花時期になると染井吉野をはじめ、オオシマザクラやヤマザクラなど、およそ20,000万本が咲き乱れる。堤防から見渡す満開の桜はなかなかみごとなものである。




 だが……。何年かまえにみた咲き誇る桜と眼のまえの風景がまるで重ならなかった。なぜなのだろう? 周囲をきょろきょろと見まわしているうちに、堤防そのものがすっかり様変わりしているのに気づいた。

 全長700mの堤防とそのうえにある道ががまるで一変していた。以前は道に石が敷きつめられていたが、平坦になって歩きやすくなっている。中央には展望デッキなんかがしつらえられている。



 以前なら湖水側ではない堤防の下には桜の古木が連なっていたのだが、いまは公園のように整地されて堤防の下には遊歩道がのびている。なるほど。ぼくが違和感を感じたのはそのせいだった。堤防から見渡す桜の絶景をなす桜並木そっくりなくなっていたのである。

 いつからそうなったのか。うかつにも堤防を渡りきってはじめてそれがわかった。湖畔に見慣れない「石碑」があった。へんてこな碑石には「五風十雨の味わい」と刻まれ、石原慎太郎の銘があるではないか。なんだろう? 裏にまわると次のように「いわく」が記されていた。



「山口貯水池は昭和二年から昭和九年にかけて築造された水道専用のアースフィルダムです。当時の先端技術を駆使して築造された貯水池は、平成七年に発生した阪神・淡路大震災を教訓として、より強固なダムにするため、平成十年から平成十四年にかけて世界にも類のない堤体耐震強化工事を行い、生まれ変わりました。」

 要するに6年ものあいだ、ぼくは狭山湖の桜をみかぎっていたことになる。「いわく」書きはさらにつぎのようにある。

「この石碑は蘇った貯水池の新たな第一歩を記念して設置したものです。碑文「五風十雨の味わい」は、東京都知事石原慎太郎の書です。」



 なぜ石碑が必要なのか。なぜ慎太郎なのか? 税金を使ってわざわざそんなモニュメントをつくる必要なんかなかろう。東京都はいったいどんな神経をしているのか……と思ったが、これはおそらく工事を請け負ったゼネコンがサービス(といってもちゃんとお代はとっている)でつくったものなのだろう。そのように考えると合点がいった。

 それほどむずかしくもない堤防ひとつ造るのに4年もかかっている。きっと工事をひきのばして、利益を大きく育てたにちがいなにのである。だから知事への返礼の意味をこめてゼネコン側の発案でつくったとみてまちがいないだろう。



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