2014-01-28
赤羽有紀子のラストラン!



 日本人トップで赤羽が長居の競技場に入ってきたとき、場内は大きな拍手でわきたった。それは先に駈け抜けたウクライナのガメラシュミルコをはるかに上回っていた。両手をあげてスタジアムの声援にこたえる赤羽、サングラスを外した彼女の横顔にさわやかな笑みがやどっていた。彼女はもう、ふたたびアスリートとして競技場に立つことはない。ゴールするまでに、なんども、なんども手をふって、観衆にこたえていた。
 最後まで走りきった安堵の笑顔というべきか。悔いなくラストランを終えた満足の表情というべきか。ゴールテープをきったときの笑顔がなんとも美しかった。

 赤羽有紀子。
 ながく日本の女子長距離のひっぱってきたランナーである。日本最初のママさんランナーとしてもよく知られている。ぼくがHP「福本武久の小説工房」に、独断と偏見による駅伝観戦記『駅伝時評』をオープンしたのが1997年、奇しくも同じ時期に、赤羽は登場している。それいらいおよそ26年、彼女の走りをウオッチしつづけてきたことになる。

 どちらかというと遅咲きのランナーである。高校時代はさしたる実績もない。全国的には無名のランナーだった。全国デビューは第16回全国女子駅伝(1998)である。真岡高校3年のとき、栃木代表として4区に登場、区間3位という記録が残っている。
 女子駅伝の強豪・城西大学に進んでからは全日本大会で4年連続区間賞にかがやいた。エースとして、つねに長い距離をまかされ、母校の優勝をもたらした。だが、当時は大学女子駅伝のグレードは低くかった。大学時代に全国女子駅伝に3度出場しているが、準エース区間の1区をまかされたものの区間成績の最高は7位、女子の全日本レベルで、まだまだ無名に近かった。
 彼女が女子長距離ランナーとして開眼するのはホクレンに入社して3年目からである。大学時代の同級生でランナーだった浅利周平と結婚、赤羽自身は結婚を機に引退するつもりだったらしいが、ホクレンに慰留されて競技続行を決心した。夫の周平がホクレンのコーチにつき、赤羽専任になってから、快進撃が始まる。
 2005年11月27日に5000mで日本歴代4位にあたる15分11秒17をマーク、日本のトップランナーに躍り出た。翌年8月には女児を出産、その後も競技を続行する道を選び、日本初のママさんランナーとして注目を集めた。
 赤羽が衆目をアッといわせたのは2007年11月の国際千葉駅伝である。ナショナルチームのアンカーとして登場した彼女は、トップをゆくケニア代表のキャサリン・ヌデレバ(アテネ・北京オリンピック女子マラソン覇者)を逆転、日本チームに優勝をもたらしたのである。

 結婚、出産を経験して強くなった赤羽の勢いはとまらない。同年12月には10000mで翌2008年の北京オリンピックA参加標準記録を突破、2008年3月の全日本実業団ハーフマラソン(山口県)では1時間08分11秒、野口みずきの大会記録を更新して優勝した。

 北京五輪の内定がもらえる2008年6月27日の全日本選手権の10000mは歴史に残るレースとして今もくっきり記憶に残っている。
 女子長距離トラックの第一人者である渋井陽子・福士加代子の両雄とラスト1周まではげしく競り合った。残り1周の鐘で赤羽が先頭に立った。優勝をのゴールをめざして乾坤一擲のラストスパートをかけた。のゴール目前の直線で渋井に抜かれ2位に終わったものの、31分15秒34の自己ベストをマークした。2日後の6月29日の5000mでも小林祐梨子に次いで2位でゴール、文句なしに力で両種目の北京代表をもぎとった。ママランナーとして史上初のオリンピック代表である。

 2009年1月、大阪国際でマラソンデビューを果たし、2位でベルリン世界陸上のマラソン代表になるが、脱水症状で31位、2010年の大阪国際で再起を期したが、故障をかかえての出場で途中棄権という挫折を味わった。
 2011年1月の大阪国際でマラソン初優勝、世界陸上大邱大会の代表にもなったが、マラソンではいまひとつ乗り切れないレースがつづき、ロンドン五輪の代表に漏れ、世界陸上モスクワ大会の代表も逃してしまった。その赤羽がラストランに第33回大阪国際女子マラソン(2014.01.26)を選んだのである。見逃すわけにはいかない。

 本大会をラストランと宣言した赤羽、スタートから積極的だった。
 レースは若い重友梨佐(天満屋)が序盤から軽快にひっぱり、最初の5㎞=17:09だったが、5~10㎞は16:44と上がった。好記録の予感ありのハイペース、「速い」と感じたというが赤羽はしっかり先頭集団についていた。連覇をねらうガメラシュミルコはその後ろにいたが、赤羽には躊躇はなかったようである。これで最後だ……という想いが、背中を押したのだろう。

 最初にレースが動いたのは15㎞すぎだった。
 給水ポイントでポーランドのヤジンスカが飛び出した。いかにも力感あふれるフォームでトップに立ちレースを引っ張った。ここで若手期待の重友がついて行けずに、じりしじろ後退したのは意外だった。
 単独トップに立ったヤジンスカを赤羽が追った。19㎞手前でとらえて併走状態にもちこんだ。だが、後ろから満を持していたガメラシュミルコのエンジンがかかった。20㎞ではおよそ44秒の差があったが、じりじりと追い上げてきて、32㎞すぎでは追いついてしまった。
 先頭集団は3人になったが、34㎞でヤジンスカが遅れはじめた。赤羽とヤジンスカのペースがあがったというわけではない。ヤジンスカがペースダウンしたのである。かくして優勝争いは赤羽とガメラシュミルコのマッチアップになったが、ここからの赤羽の走りが圧巻だった。
 35㎞~37㎞までの両者の攻防は見応えがあった。ガメラシュミルコの後半の強さは誰もが知るところである。赤羽はそれを承知で35㎞すぎからなんどもスパートをかける。ガメラシュミルコを引き離しにかかる。だがガメラシュミルコも素早く対応した。これもまたさすが…と思わせられた。
 35㎞といえば、マラソンでは最も苦しいところである。ここで赤羽は渾身のスパート、それも執拗に繰り返した。35㎞をすぎて、これほどの勝負が出来る。現在の日本人ランナーのなかには皆無である。ラストランのランナーがそんな走りをしたこと、驚きというほかはない。肩の力がぬけて、リズミカル、ほれぼれするような走りだった。
 めまぐるしいトップ争い。だが37㎞すぎだった。ガメラシュミルコが前に出てると、もう赤羽には追う脚はなかった。

 赤羽の健闘は称えねばなるまい。最後までめいっぱい勝負をかけての負けなのだから、いたしかたのないところ。股関節や足首に不安をかかえ、コンディションは必ずしも万全ではなかった。「走ってみないとどれぐらい走れるか分からない」といっていたが、むしろそれが好結果に結びついたというのか。ラストランという開き直り、あるいは精神的な開放感もあったのかもしれない。

 ゴールした後、スタンドに挨拶したあと、赤羽は待ちうけていた夫でありコーチでもある周平氏の胸にとびこんでいった。コーチとして終始、選手としての赤羽をサポートしてきた周平氏の、いかにも満足そうな笑顔も好もしかった。
 赤羽の走りを讃えたいと思うが、それと裏腹に、日本女子のマラソン・長距離の未来に想いを馳せると、なんともはやお寒いというほかない。これはどうしたことなのだろう。 今回の招待選手のなかで、期待の星は重友梨佐であった。2年前の大阪国際で日本歴代9位に相当する2時間23分23秒で優勝。ロンドン五輪では惨敗したが、年齢的にみて25歳の重友あたりの世代が日本を背負わなければならない。本大会で復活して、新しいリーダー名乗りをあげてもらいたい。関係者はこぞってそう思っていたはずである。ところが自己ワーストの64位。さらにトラックの第一人者。新谷仁美も31日に引退を発表するという。日本女子の長距離・マラソンはどこにゆくのか。

 本大会で4位に仏教大の4年生で今春ダイハツに入社する前田彩里、後半の走りは勢いがあった。だが、マラソンはそんなに生やさしくはない。彼女の次走りに多くを期待するのは酷というものである。ながく「駅伝時評」をつづけてきて、男女ともこれほど顕著に、マラソン・長距離「冬の時代」がやってきたのは初めてのことである。
 各実業団チームとも選手層が薄くなった。マラソンをめざす選手がきわめて少なくなったのである。
 日本のアマスポーツは総じて実業団が支えてきた。実業団を中心としたプラミッド組織で選手たちは養成されてきたのである。一般企業による実業団が多額の資金を投じて、スポーツ選手を育成強化してきたのである。たとえば「駅伝」だが、チームを持とうと思えば年間2億から3億ぐらいかかるらしい。宣伝費と思えばいいわけだが、バブル景気崩壊後、この実業団システムが崩壊してしまった。
 駅伝チームを持つ企業にしても、最近は資金がまわらなくなった。宣伝に結びつく目先の駅伝をフォローするだけで精一杯、手間ひまかかるマラソン選手の育成にまで手が回らなくなってしまったのが現状だ。
 赤羽有紀子、新谷仁美の引退、日本女子のマラソン・長距離にとって、確実に一つの時代が終わったような気がする。

 ところで……
 ながく二人三脚で歩んできた赤羽夫婦、今後、いったいどういう人生を歩むのだろうか。ラストランの肩の荷をおろして、笑顔で抱き合う2人の姿をみていて、わけもなく、ふと、そんなことを思った。きっと小生が小説書きゆえのことだろう。彼も彼女もまだ折り返し点にも達していない。未来は無限なのである。



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2013-03-21
BOATRACEと花見、そしてアラセブンの同窓会

 春分の日……
 PASMOを持って都内に繰り出した。春めいた気候に誘われたというわけではない。夕刻から浜松町で大学時代のサークルの同窓が集うことになっていた。かつて京都御所の近くで学んでいたアラセブンの男女8人がひさしぶりに花の東京のどまんなかで顔を合わせるというわけだった。
 これといってアテもなく自家をとびだしたので時間がたっぷりある。浜松町を通り越して大森まで足をのばした。この日、平和島BOATRACE場ではSG総理大臣杯の優勝戦があった。だが舟券はその日の朝、すでにNET投票で買っておいた。だからもっぱらレースの観戦である。
 平和島は人であふれていた。さすがはSGレースである。競艇場や競馬場にゆくのは雑踏のなかで独りになれるからである。何もかも忘れて自分ひとりになれる空間がそこにあるのだ。
 レース場は連れがいるといけない。二人、あるいは三人いたといて、そろって舟券で好成績をあげることなど、まず、ありないからである。どうしても勝ち組と負け組とのあいだに温度差が出来てしまう。なんとも気まずくなってしまうのである。
 まずは腹ごしらえ。平和島といえば「さざなみ」の煮込み定食。だが、この日はそれをパスして、和食の惣菜をバイキング形式でチョイス、マグロのぶつ切り、赤魚鯛の塩焼き、胡瓜の酢の物……。
 優勝戦は1号艇の池田浩二が勝つに決まっている。前日からそのように信じて疑わなかった。今まで買ったこともない単勝の舟券でも買ってみるか。そうすれば少なくとも平和島にやってきたという証になるはずだ。思いついて池田浩二の単勝を100円だけ買った。

 

9Rの発売中のことだった。イベント広場が突如としてたいへんな人だかり。たむろする誰もが携帯のカメラをかまえている。何があるのか。雑踏を縫って人と人とのあいだをのぞくと、アッキーナこと南明奈の笑顔がちらと見えた。さすがSGならではのゲスト。
 だいたい最終日は荒れる。荒れることになっている。9Rは5号艇、10Rは6号艇、外枠になったがゆえにノーマークの艇が1マークでするすると抜けだして、あれよあれよの逃走劇。ともに2万舟券である。ひえーっ、6号艇が来るのかよ! 後ろのオジさんが悲鳴をあげていた。
 万舟が出るということは、大部分のファンがにがっぽり巻き上げられた証左である。メインのまえに荒れると、ファンは総じて平常心をうしない、取り返そうなどと気色ばんで穴狙いに走る。だが、こういう日は皮肉なもので逆にメインは堅くおさまるのが常なのだ。
 舟券を買わない小生は11Rが終わったところで引き揚げ、ファイナルは観ないでレース場を後にした。大森駅までのシャトルバスのなか、すぐ後ろの座席で舟券談義! 「今日一日で5万ほど負けた」「おれは初日からずっと来てるが、ぜんぶで15万円は負けたな」負けたのを自慢しあってどうするのだ。あっけらかんといているから、まあ、いいとするか。
 浜松町にもどると、まだ1時間ほど余裕があった。
 増上寺の桜はどんなぐあいだろう。時間つぶしに足をのばした。桜はちらほら、見物人もとらほら。全体的に観て四分咲きといったところか。



 境内の一角に人の輪ができている。猿回しとはいまどきめずらしい。相棒のサルに語りかけるオヤジの威勢のよい声だけが構内にひびきわたっていた。



 ようやく夕暮れ……。
 そぞろ歩きで浜松町の貿易センタービルにもどる。ちょうど集合時間の10分前、エレベーターホールにゆこうとすると、遠くに見慣れた顔、向こうも気づいたらしい。笑顔で手を振っていた。
 半日もまわり道、ようやく目的地にたどりついた。
 
 

 
 
 



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2013-03-10
真説・池田屋事変

 京都の庶民の側からこの池田屋事変をみると、なんともやは無粋な出来事というほかなかった。この日は祇園祭の宵宮にあたっていた。事変は京都市民の最大のたのしみをぶちこわしたのである。
 当時、尊攘激派の志士たちは祇園、三条、木屋町界隈、下河原あたりの茶屋や町屋に潜伏していた。かれらは御所に火を放ち、混乱に乗じて松平容保らを暗殺し、天皇を奪おうともくろんでいた。
 とてつもない、その陰謀は、志士たちの連絡係をつとめていた古高俊太郎の捕縛によって発覚した。古高は四条小橋付近に店をかまえ商人に化けていたが、武器・火薬をあつめているのがきっかけて発覚してしまったのである。
 古高がとっつかまってしまったので、志士たちは、その善後策をどうするか相談するために池田屋に集結していたところを襲われたのである。
 志士たちは相当泡を食っていたものと推察される。宵宮の雑踏すら念頭になく、迂闊というほかない。しかし、これを急襲した新選組は実に用意周到で、この祭りを最大限に利用したのである。
 新選組の隊士たちは、何食わぬ顔の平装で壬生の屯所を出発し、目立たぬように数人ずつに分かれて町にはいり、四条の町会所に集結して武装した。かれらは京都守護職預かりという立場ゆえに、京都の街の自治組織を自由に利用できる立場にあったのである。
 新選組の隊士は二手に分かれて池田屋に切り込んだが、総勢にしてわずか三〇数人にすぎなかった。
 だが、池田屋の周囲を守護職の会津藩、京都所司代、一橋、彦根などからくりだしたおよそ三千の藩兵たちが、取り囲んでいた。三条から四条を、武装した兵たちが幾重にも包囲しており、志士たちは袋のネズミだったのである。
 まるで市街戦というべきで、志士たちは逃げおおせることはできなかった。テレビドラマなどでは新選組の活躍なかりが目立っているが、実際は幕府側が総力をあげた大捕物だったのである。
 むろん山本覚馬も出陣している。そして翌朝、京都にのぼってきていた佐久間象山のもとにおもむき、さっそく、その顛末を報告しているのである。



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2012-12-21
八重と尚之助、のちに会ったのか?




 この8月から11月にかけて2013年NHK大河ドラマの主人公となる新島八重に関連する小説、評伝をあわせて6冊刊行しましたが、読者のみなさんから、かなり突っ込んだ問い合わせがきています。

 小説作品としては『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(ともに新潮文庫)『小説・新島八重 勇婦、最後の祈り』(筑摩書房)の3部作があります。

 お問い合わせの多くは、基本的に「どこまでが史実で、どこまでが事実か…」というところにゆきつく質問です。

 小説作品というのはフィクションを弄する文学作品であることは自明のことです。しかし同作は歴史小説であり、実在の人物をあつかっておりますから、実在の人物は本名で書き、歴史的事実は克明に調べ、執筆時点で歴史的事実には正確を期しています。

 新島八重の人生は波瀾万丈の人生といえば、いかにも、ありきたりです。だが、そのように表現するほかない生きざまで、何の虚飾もなしにドラマになってしまう。筋だけをうまくつないでまとめて、それだけで歴史読物にすること、かんたんにできてしまいます。ただの物語として読者のアタマのなかに流し込もうとすれば、それでいいわけで、あえて小説というカタチにしなくてもいい。むしろ書籍としてはそういうモノのほうがよく売れるかもしれません。

 小説にするということは、物語として伝えるだけではありません。ことばの表現に工夫をこらし、物語を具体的な場面に構成して、そこで人と人との触れあいや葛藤、人とモノとの関わり、人と事件との関係などを、活き活きとことばで描いて、ひとつの世界を作り出すことなのです。

 そのようにして出来上がった小説について、事実とフィクションを腑分けせよといわれても、作者としては「小説であるからには、すべてがフィクションであり すべてが事実である」としか答えようがないのです。

 とくに問い合わせが多いのは、『小説・新島八重 新島襄とその妻』にある八重とかつての夫・川崎尚之助が江戸で邂逅するという挿話です。

 これについても同じ台詞を繰り返すほかありません。ただし、今回、小生は愚かにも小説3冊のほかに新書版で『新島八重 おんなの戦い』(角川書店刊 角川0neテーマ21)というミニ評伝を出しております。これはノンフィクションですからフィクションはありません。立ち読みでページを繰ってもらえば、すぐに答えは出るはずです。

 かつて小説記述としての同個所をノンフィクションの評伝に、事実として使った無謀な書き手がいました。むろん著作権問題に発展したことは言うまでもありません。



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2012-11-27
キンドルがやってきた!

 

 

 


 10月に予約しておいたKindle Paperwhiteが今朝とどいた。

 購入したのは3Gタイプ。無線LAN環境がととのっていないので、とりあえず価格の高いほうの3Gタイプ、つまり携帯電話がつながる環境であれば、本をダウンロードできるタイプにしている。通信費はAmazonの負担だからいっさいかからない。

 電源さえいれれば、ただちにフル稼働できるというのがAmazonのウリである。さっそく電源を入れて、マニュアルにのっとってキンドルストアにゆき、とりあえず書籍を一冊買ってみた。モタつくこともなく、わけなくダウンロードが完了した。

 KindleそのものをAmazonのサイトにいってカード決済で買うと、すでにして機器そのものがユーザー登録されて届けられる仕組みになっている。だから、ワンタッチで本が購入できるカタチになっている。IDやカードナンバーの打ち込みも、あらためて実行する必要もないのである。

 ダメモトでウエブプラウザも試してみた。Wi-Fiを設定しろ…というので、ダメモトでやってみると、なんとTwitterにつながってしまった。いまのところKindleは電子本を読むだけで、これでTwitterをやるつもりは毛頭ないのだが、こんなこともできる。

 無料本もいくつかダウンロードして読んでみたが、Kindle用につくられた電子本は、レイアウトもすっきり、バックライトのあるせいか、鮮明な画面で読みやすい。

 自分でつくったPDFの電子本もUSB接続で転送して試してみた。もともとKindleを意識した画面構成になっていないので、文字が小さくて、ちょっと読みづらかった。 しかしKindleの画面を意識してさえ作成すれば、これも十分に対応できそうだ。

 問題はAmazonの電子本コンテンツがどれほど充実されるかということになるだろう。現状でははっきりいって,小生が読みたい本はほとんどない。それに価格がかなり高い。電子本といえども、ほとんど紙の本と同価格になっている。同じ価格なら、小生は躊躇することなく電子本ではなくて紙の本を買う。

 電子本の場合、製作費からみても半値位以下、3分の1値ぐらいにしてもらわねば、読み手の食指は動かない。

 ま、それはともかくとして、Kindle Paperwhite は本を読むツールとしては、かなりの優れものとみた。



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2012-11-16
『小説・新島八重』シリーズ完結編


 
 
  筑摩書房より刊行の『小説・勇婦、最後の祈り』(11/21発売)は『小説・新島八重』シリーズのいわば完結編ですが、例によってある雑誌から、またまた著者による著書紹介を依頼されました。以下はその原稿です。

 
                    ◇◇◇◇◇◇◇
  

 数えで八八歳まで生きた新島八重はいくつもの顔をもっています。「さむらいレディー」というべき会津若松時代は、洋式銃砲という近代兵器に眼をむけていたという一点で先駆的でした。新島襄とともに暮らしたクリスチャンレディーの時代は英語を学び,聖書を学び、文字通り近代女性として颯爽と駈けぬけました。

 先に刊行した『小説・新島八重 おんなの戦い』『小説・新島八重一新島襄とその妻』』は、そういう時代を描いており、それぞれ自立した作品世界をなしています。本書『小説・新島八重 勇婦、最後の祈り』は、それら連作のフィナーレをなす作品です。

 新島襄亡き後の八重は社会活動に身を投じ、たとえば日清・日露戦争では篤志看護婦として従軍、看護は女性にふさわしい職業であり、女といえども国家に役立つことをみずから実証して見せました。晩年は当時としては珍しい女流茶道家として、女性の茶道人口拡大に力をつくしながら、終生にわたり新島襄の、会津戦争の語り部をつとめています。八重はこのように、つねに時代の最先端を歩んでいます。

 女が人間としてみとめられなかった時代にあって、良人を亡くし、独り身となった八重が、どのような思いで社会に関わり、時代をこじあけようとしていたのか。孤独な闘いに挑んだ八重、作品世界に登場する彼女の半生がそれにこたえてくれています。



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2012-10-23
八重をたづねて、ふらりと会津へ

ふいと思い立って会津を歩いてきました。

 10月22日(月)朝5時すぎに出発、会津若松駅には9時40分に到着、およそ4時間の旅でした。
 雲一つない晴天で風もない。歩けば汗ばむほどの陽気でした。車中からみた磐梯山は中腹まで紅葉がきざしていました。会津若松の町中、とくに鶴ヶ城周辺は、まもなく紅葉まっさかりになるでしょう。

 駅前に降り立つと、『「八重の桜」を応援しています』という会津若松市のモニュメントに歓迎されてて、街あるきのスタートです。

 500円で1日乗り放題のバスのチケットを買って、左回りコースの「あかべえ」号に乗車、飯盛山、武家屋敷、鶴ヶ城、そして最後は七日町界隈を散策してきました。
 八重の桜による人気のせいでしょうか。月曜日にもかかわらず、観光スポットには観光バスでやってくる人たちがそこそこたむろしていました。

 街には「八重」をあしらった提灯やポスター、看板などであふれていました。笑ったのは土木工事中の標識看板にもキャラクターの「八重たん」が描かれていたこと。



 そんなこんなで人気で街はわきたっているのに、いぜんとしてお膝元の会津でも「八重」はあまり知られていないようです。

 たとえば飯盛山でびっくり仰天のエピソードをひとつ。
 最近は観光客相手にボランティアのガイドさんが活躍しているようです。ある老人ガイドさんの名調子に引き寄せられて、それとなく耳をすますと,どうやら「八重」をとりあげているらしい。ところが「井上八重」と聞こえてきました。聞き間違いだろうと聞き手の輪にはいると、「井上……」「井上……」と繰り返している。おもわず苦笑してしまいました。

 「やめとけ!」と言ったのに,連れが、ガイドの爺さんが話し終えるのを待って、ツカツカと歩み寄り、「井上ではなく、山本ではありませんか?」と声をかけてしまいました。「そうでした、まちがいです。山本です」ガイドさんは、笑って恐縮することしきりでした。

 爺さんガイドさんに悪気があるわけでもなく、「八重」は郷里の会津でもというか、会津だからこそ、あまり知られていない、知られてこなかった。その裏返しではないかとへんな納得のしかたをしておりました。

 会津若松はせまい町です。500円の専用フリー乗車券をうまく利用すれば,渋滞という者がないので、ウイークデーならば、1日でかなりの観光スポットを制覇できます。

 勝手知った街というわけでもありませんが、昼すぎには鶴ヶ城をみてまわり、午後はそこから神明通りから七日町あたりをぶらりと散策、午後になっても穏やかな天候、汗ばむほどの陽差しにめぐまれて、ソフトクリームをナメながら、ひたすら歩いておりました。

 若松を後にしたのは午後5時、9時過ぎにはもう自宅にたどりついておりましたから、やはり帰りも4時間そこそこでした。



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2012-10-10
純米吟醸酒になった「八重さん」


 会津若松の末廣酒造はこのほど純米吟醸酒「八重さん」を発売した。来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」をみすえ、同志社とタイアップ、同志社のキャラクターである「八重さん」をあしらっての新商品である。

 末廣酒造のサイトには「八重さん」の特設ページがつくられたが、そこに掲載されている「八重の生涯」には、小生のエッセイがつかわれており、ひょんな奇縁でページづくりに一役買うことになった。

 純米吟醸酒「八重さん」だが、瓶タイプだけかと思っていたら、そうではなかった。ほかにもワンカップタイプとそおセット、さらには「純米吟醸 八重さん」と「末廣 白虎」のセットもあって、バラエティーに富んだ品揃えになっていて、これにはちょっと驚いた。

「八重さん」「白虎」というから、男勝りの荒ぶった辛口かと思いきや、どちらかというと爽やかなタッチで、すっきり、まろやか、口当たりのよい、まさにキャラクターの八重さんの面立ちそのものの味わいであった。

 大河ドラマを通じて、お酒と通じて、同志社周辺でも、会津でも見捨てられてきた八重について、もっと、ひろく知られてっほしいものである。



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2012-09-12
八重はジャンヌダルクなんかではない!

 2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」が今週初めの9日にクランクインしたようである。

 これに先だって主演の綾瀬はるかは8日、京都にゆき、若王子の同志社墓地にある八重の墓参りをすませたという。かつて栗原小巻が八重を演じたときも、クランクインに先だって墓参りに行ったから、常套的な儀式になっているらしい。

  
 会津でのロケは11日から本格的にはじまり15日までつづくという。初日は八重(綾瀬はるか)、覚馬(西島秀俊)、川崎尚之助(長谷川博巳)らの絡みのシーンが撮られた。詳しくはNHKオンライン福島ニュースでとりあげられている。(http://www3.nhk.or.jp/fukushima/lnews/6054859511.html

 ちょっとひっかかるのはニュースの文面および動画リプレイのアナウンスのなかにある『「八重の桜」は幕末の会津藩に生まれ「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた新島八重の波乱の生涯』という部分である。

 どこがひっかかるかというと「幕末のジャンヌダルク」という部分である。八重をジャンヌダルクに仮託しているのだが、思わず声を立てて笑ってしまった。軽佻浮薄、有象無象のメディアならともかく、天下のNHKがなんたることか。それはないだろう……と。

 幕末のジャンヌダルク、誰が言い出したのかは知らないが、このような浅はかなキャッチを使ってはいけない。

 ジャンヌダルクと八重はまったくちがう。八重は神の啓示をうけたわけでもなく、第一にあれほど神がかりではない。宗教裁判にかけられ、火あぶりになったわけでもない。なぜジャンヌダルクなのか? 

 類似性などまったく皆無である。これではジャンヌいついても、八重についてもまったく何もわかっていないことになる。ジャンヌにも八重に対しても失礼じゃないいのかなあ。

 誰が言い出したのかは分からないが、それを何の疑念ももたずにそのま鵜呑みにして、悪のりしている。「幕末のナントカ」などと平気でいう輩は、八重について何ひとつ分かっていない輩だと言っておこう。



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2012-08-22
『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(新潮文庫)


 例によって、ある雑誌にもとめられて書いた「自著紹介」です。(笑)
                  ◇ ◇ 
 日本の近代は砲弾が地ならしして幕あけた。
 明治元年(一八六八)の戊辰戦争、新政府軍は会津・鶴ヶ城に攻めかかった。そこで女こどもはどう生きたのか。

 足手まといになるのを懸念してある者は郊外に逃れ、恥辱を受けてはならじとある者は自刃し、そしてある者は城に入って参戦することを決意した。

 兵糧炊き、傷兵の看護、弾丸づくり、砲弾消し……。入城したおよそ六〇〇人の婦女子は裏方にまわって戦闘を支えた。だが、そんな女の仕事だけでは満足できない女丈夫がいた。山本八重、後の新島八重である。

 会津藩砲術指南役の家に生まれた八重はスペンサー銃を手にして夜襲に出撃、砲隊で率いて向かい撃った。しかし戦いに敗れ、藩家は斃れた。家屋敷を奪われだけでなく父をうしない、夫とも別れなくてはならなった。

『小説・新島八重 会津おんな戦記』は、そんな八重の若き日の戦い、愛と別離、そして新しい旅立ちを描いている。 会津戦争を高みから見おろすのではなく、あくまで八重というひとりの女性の視点、いわば「一兵卒」の目線から描ききった小説作品である。

『小説・新島八重 新島襄とその妻』は、その八重が兄の覚馬をたより会津から京都にやってきて新島襄とともに暮らした時代を描いている。

 京都にやってくるなり、八重は英語を学び、キリスト教にも接近、そして新島襄と運命的に出会って結婚、洋装洋髪のモダンレデイーとしてよみがえった。だが、それは八重にとって、また新しい戦いの幕あけでもあった。当時、キリスト教に入信すること、さらには耶蘇と後ろ指をさされる男と結婚することなど、ただならぬ勇気のいることで、周囲すべて敵にまわすにひとしかったのである。だが、八重はいっさい怯まなかった。キリスト教への根強い偏見、政府や京都府の妨害など困難をのりこえて同志社を築いた襄を支えつづけ、近代日本の幕あけを颯爽と駈けぬけたのである。

 そんな八重の生きざまには開花期の日本人女性が背負わなければならなかった文化的な軋轢があちこちにある。近代と前近代との狭間に明滅する女性ゆえの凄まじいばかりの孤独な闘い、それが本作品のライトモチーフになっている。

 もともと両作品はそれぞれ独立した作品として刊行されたものだが、対をなすものであり、文庫化にあたって人名表記を統一した。なお両作につづく第三弾として、近く『小説新島八重 美徳をもって飾となす』(仮題)が登場する予定である。

◇発売:2012.08.28



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2012-08-07
新島八重 おんなの戦い



 ある雑誌から「自著紹介」の原稿の執筆を依頼された。しかし自分の書いた作品を語るのは、きわめてむずかしい。他人の作品ならば,わりあい気楽に向き合える。だいたいは,良いところをとりあげれば、作業の半分はそれで終わっている。極端な話をすれば、誉めるとすれば、1あるものを5から6までひきあげて書くこもできる。ところが自分の作品はそんなことはできないから困り果てるのである。

 自著を語るのはむずかしいというよりもたいへんやりにくいのである。やりにくいのを承知しながら、書いたのが以下の稿である。
…………………………………………………………………………………………………………

『新島八重 おんなの戦い』(角川oneテーマ21)新書 角川書店

 まさに波瀾万丈というべきか。世にはまるで絵に描いたようだ、と眼をみはらされるような人生もある。新島八重もそんなひとりである。
 会津藩砲術指南役の娘に生まれた彼女は、明治元年(一八六八)の戊辰戦争で、断髪男装の出で立ちで、七連発の新式銃をとって籠城戦を戦いぬいた。女性でありながら近代兵器というべき銃砲に眼をけていた女性は彼女のはかにはない。
 戦いに敗れたあと、兄覚馬をたよって京都にやってくると、英語を学び、キリスト教にも接近、新島襄と結婚、洋装洋髪のクリスチャンレディーに生まれかわってゆく。密航青年と鉄砲娘の結びつき、それは、まさに日本の近代の幕あけであった。
 新島襄の死後は社会活動に身を転じ、日清・日露戦争のときは日赤の篤志看護婦として従軍、看護師は女性に適した仕事であることを実証してみせ、働く女性の先駆者となった。
 八重はまさに近代女性の先駆をなす存在といえるが、それゆえに近代と前近代との狭間に立って、女性ゆえの凄まじいばかりの戦いがよこたわっていた。
「女こども」とひとくくりにされ、女が人間であることをみとめられていなかった時代に、八重は自立したアクティブな女性として、果敢に颯爽とかけぬけていった。本書は当時の時代背景や、同じ会津女性で戊辰戦争の洗礼をうけた大山捨松や若松賤子の生きざまにも目配りしながら、八重の素顔に光を当てた歴史ドキュメントである。



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2012-07-15
小倉そして無法松!

久しぶりに小倉へ行ってきた。

小倉はモノ書きとして刺激的な町である。森鴎外の史跡があり、松本清張ゆかりの地で記念館もある。もう少し範囲をひろげれば火野葦平、林芙美子……。

残念ながらとんぼ返りだから、街の散策はできなかった。唯一。小倉らしさを感じたものといえば祇園太鼓、無法松である。

小倉駅のバスセンター前でリムジンバスを降りて、駅に向かう歩道橋をかけあがると、そこに「祇園太鼓の象」があった。そして無法松の象は北口にあった。




♪ 小倉生まれで玄海育ち口も荒いが気も荒い ・・・ ♪ 

映画「無法松の一生」、原作は岩下俊作の『富島松五郎傳』である。

北九州地方は数日前から、過去に例のない豪雨にみまわれ、この日も久留米や柳川は避難命令が出るほどだったというが、どういうわけか小倉は曇天で、ときおり弱い雨がくるていどだった。

宇都宮につづいて「八重を語る」旅である。小倉駅からほど近い西日本総合展示場の新館に向かったが、あまりにも広大で会場はどこなのかわからない。うろちょろしているうちに、三葉のクローバーの小旗をもつ案内のお兄さんをみつけて、やっと、ひと安心で……。

同志社キャンパスフェスタ、わが母校の広報キャンペーンというべきか。今年も全国7個所でおこなわれる。各地の校友、在校生の父母、来春の受験予備軍の高校生などがやってくる。

大学の近況報告、講演会、大学紹介、ミニ講義、入試説明、入試・学生生活相談コーナーなどがあって、学長も顔を出すから全学あげてのイベントだ。こんな年中行事があろうとはうかつにも知らなかった。

もっぱら講演会場にいたので、他のイベント会場のようすはわからないが、総勢500人が参加したという。高校生は篤志家の校友が駆け回って集めてきたという。地方へ行くほど校友会の母校への愛惜が深い。最後の交流交歓会で、いろんな校友に人達と話していて、そのことを痛感した。

八重について、大勢のまえで、お話しするのは、今年で3度目である。いつも思うのだが、「書く」ことはなんどでも書き直しができるが、「話し」はやり直しが利かない。モノ書きというよりも小生は貪欲だから、あれも、これも話そうとする。あれもこれも話したいのである。その結果、最後は時間に追われてしまう。同じ事を三度も繰り返してしまっては、自分ながらアホというほかない。

話人間でない小生は、だいたい40分ぐらい話をすれば、声のスタミナが切れてしまい、あとは、割れた声をなだめ、目を白黒させての綱渡りになるが、今回は予定時間を10分オーバーして70分でも十分持ちこたえた。これは収穫というべきだろう。

お話の旅は今年から来年にかけて、いまの段階で、あと6回も残っている。どうやら一発勝負のおもしろさを知らないままに終わってしまいそうである。ま、モノ書きなのだからそれでいいだろう。



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2012-06-01
「八重の桜」キャスト発表! 新島襄はどこにいる?

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のキャストの一部があきらかになった。
あけてびっくり、なんとも豪華な顔ぶれである。今年の「平清盛」がいまひとつの人気なので早めに盛りあげうぃはころうという腹とよめた。先に発表されたものも含めて、整理すると次のようになる。

新島八重……………………………綾瀬はるか
山本覚馬(八重の兄)………………西島 秀俊
山本権八(八重の父)………………松重 豊
山本佐久(八重の母)………………風吹ジュン
山本うら(覚馬の妻)………………  長谷川京子
山本三郎(八重の弟)………………工藤阿須加
川崎尚之助(八重の最初の夫)……長谷川博巳
日向ユキ(八重の幼なじみ)………剛力彩芽
中野竹子(娘子隊の烈女)…………黒木メイサ
松平容保(会津藩主)………………綾野剛
照姫(会津藩の姫君)………………稲森いずみ
西郷頼母(会津藩家老)……………西田敏行
山川大蔵(会津藩家老)……………玉山鉄二
梶原平馬(会津藩家老)……………池内博之
神保修理(悲劇の藩士)……………斎藤工
佐川官兵衛(会津藩家老)…………中村獅童
秋月悌次郎(会津藩公用人)………北村有起哉

http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/cast/

ざっとみわたして、会津戦争のみを眼中においたキャストになっている。主人公の八重が会津で過ごしたのは88年の人生のうちわづか24年のみである。のこりの64年は京都ですごしているのだが、京都時代、つまり洋装洋髪のモダンレディーとなり新島襄と過ごした時代、さらには日清・日露で篤志看護婦として活躍した時代、そして女流茶道家として過ごした晩年ついては、まだ触れられていない。

このキャスティングからみると30回ぐらいは会津戦争を主眼いおき、会津で成長してゆく八重と、京都守護職についた会津藩と覚馬の活躍を交互に取り上げながら、鶴ケ城籠城戦までもっててゆくのだろう。

昨年、拙著『会津おんな戦記』と『新島襄とその妻』の文庫化(9月1日発売)をとりあげてくれた編集者は、今回の「八重の桜」が最初に報じられた昨年6月半ばの時点で、すでにして「平清盛」は時代にマッチしないから、早晩ぽしゃっていまうだろうとみていた。そこで「八重の桜」については、例年より早く盛り上げをはかるだろう…と予言していたが、けだし慧眼というべきで、はからずもその通りになっている。

現実に「平清盛」の視聴率は低迷しており、そんなおりからの豪華キャストの発表である。適材適所というよりも、ネームバリューと「顔」そろえという感じがするけれども、ドラマだから、それ以上に何も言うまい。

おそらく50回のうち半分以上はを会津を舞台にして展開されるのだろう。東北・福島復興というねらいがあるから、それは自然のなりゆきである。しかし「新島」八重を主人公にしながら、新島襄のキャストはいまだ明らかになっていない。

年末あたりに第2弾として発表されるのかもしれないが、新島……を謳いながら、新島襄がいささか軽んじられているようで、なんともはや、ちょっと首をかしげてしまうのは、ぼくだけだろうか。



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2012-04-12
川崎尚之助、山本覚馬、そして大木仲益のこと

昨年の6月、2013年のNHK大河ドラマが「八重の桜」と題して、新島襄の妻である八重の生涯をとりあげると発表されたから、八重の最初の夫である「川崎尚之助」についての問い合わせが数多く、わがホームページのアドレスによせられています。

 八重を主人公にした小説作品『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)と『新島襄とその妻』(新潮社刊)、いずれも30年前の作だが、その作者であるからでしょう。

 小説作品だから人物造形はむろんフィクションですが、来歴や事跡については、当時できるかぎり調査した史実にもとづいています。だから、作品に書いたとおり、あれがすべてです…と、お答えすることにしています。

 川崎尚之助は、いまだ謎の多い人物です。今回の一連の大河騒動がきっかけで、謎の部分が史家によって明らかにされるのではないかと期待していますが、事実分からない部分が多いのです。

 川崎尚之助は但馬国出石藩の医師の子として生まれ、安政四年の秋ごろ会津にやってきています。 八重の兄山本覚馬がつくった藩校日新館の蘭学所の教授になるのですが、覚馬が自分の職俸から四人扶持を与えようとしたほどの惚れこみようでした。尚之助は山本家に投宿しるようになり、やがて八重と結婚するのですから、覚馬が江戸遊学中に知り合った人物とみていいでしょう。

 尚之助は洋書によって学理を講じ、さらに西洋式の銃法の鋳造、弾丸の製造法などの指導にあたり、覚馬とともに、会津藩の西洋式砲術の導入におおきな役割をはたしました。
 蘭学所の洋砲伝習科はやがて学校奉行からはなれ、大砲方として軍事奉行の配下になるのですが、終始、尚之助は教授人をつとめています。

 八重と尚之助の結婚は慶応元年(一八六五)ごろとみていますが、もとより当人同士の意思によるものではありません。尚之助はそのころ会津にやってきて、およそ八年たっていましたが、日新館の教授人であるものの、まだ藩士として登用されていませんでした。藩士の子弟の婚姻にはむろん藩庁の許可が必要ですから、藩籍をもたない尚之助と八重の結婚はふつうでは考えられません。

 二人の縁組みは当人たちのあずかりしらぬところで、意図的にしくまれていたと考えるほかありません。得がたい人材である尚之助を会津にとどめておくために八重を妻合わせたというのは、まったくありえない話でもないでしょう。

 とくに覚馬が京都勤番になってから、会津の銃砲について技術的にサポートできるのは、もはや尚之助しかおらず、かれの存在感がそれほど増していたことは確かです。二人の縁組には覚馬の影が見え隠れしており、二人の結婚は兄の意思でもあるとしたら、八重は一も二もなくうけいれたとみます。

 尚之助は八重とともに籠城戦を戦いぬき、開城の直前に脱出して会津を去ったとみていますが、、およそ一一年間にわたって会津の弱点というべき銃砲による戦略を、おもに技術者として支えつづけたのです。

 尚之助は蘭学のほかに、舎密術(理化学)の知識もあり、砲術の専門家であり、江戸では加藤弘之と並ぶ、新進気鋭だったというのですが、いったい、どこの誰に学んだのか。どこで覚馬と知り合ったのか。

 小説書きの小生としては、尚之助は従たる人物なので、あまり深追いはしませんが、その一点だけは長いあいだこだわりつづけていました。容易に謎は溶けだしてきませんでしたが、このほど八重をめぐる新書(8月刊)執筆(すでに脱稿)途上の資料漁りで、偶然にもいくらか糸口がみえてきました。

 接点が江戸だとすれば、覚馬が江戸にいたころの人脈に連なっているにちがいありません。覚馬が砲術修業した師は佐久間象山、江川担庵、下曾根金三郎、勝海舟、さらに『改訂増補山本覚馬傳』によると大木衷域のもとで蘭学を学んだとあります。

 ところが大木衷域なる蘭学者は存在しません。そこで大木という蘭学者を探しつづけ、衷域ではなくて、忠益あるいは仲益であるというところにたどり着きました。さらに加藤弘之の経歴を調べてみると、安政元年に蘭学者大木仲益のもとに入門したとあるのです。

 大木仲益(幼名:忠益)ならば米沢出身の蘭方医で、坪井信道に蘭学を学び、芝浜松町の坪井塾の塾頭をつとめていました。当時の兵学ブームに乗って、洋式兵法書や砲術書の翻訳の仕事も精力的にこなしております。仲益はほどなく坪井信道の女婿になり、薩摩藩に迎えられ、坪井為春と改名、島津斉彬の侍医になってゆく人物です。

 おそらく『改訂増補山本覚馬傳』の編者は忠益あるいは仲益の読みを誤認したうえ、さらに誤った漢字をあてた。よくあることです。

 尚之助はこの大木仲益のもとで同じ藩の加藤弘之とともに修業した人物とみてまちがいないでしょう。ペリーの来航以来、当時の蘭学者は砲術書などの翻訳がおもな仕事でしたから、かれも翻訳の仕事を通じて砲術を中心とした理化学を学んでいたと情勢判断します。

 そこらあたりも含めて、こんどの新書で、少し触れてあります。



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2011-07-22
菅谷昭さんの『新版・チェルノブイリ診療記』


 菅谷昭さん(現・松本市市長)の『新版・チェルノブイリ診療記』(新潮文庫)を読んだ。著者は1995年、信州大学医学部の助教授だったが、チェルノブイリの原発事故のあと、子どもたちを救うべく、わが職をなげうち、自費でベラルーシに飛んだ。5年間にわたって外科医として甲状腺ガンなどの手術に腕をふるった。

 先に晶文社から『チェルノブイリ診療記』というタイトルで単行本になっていたが、本書はその文庫化である。

 文庫によって再読したのだが、新版には、「福島原発事故への黙示」というサブタイトルが付されており、福島原発事故を強く意識して刊行されたものであることがわかる。

、冒頭に新しくかかげられた「新版に寄せて」には、チェルノブイリで医療活動に従事した医師の立場から、福島の原発事故に対する国の対応の甘さを指摘、専門家としての苛立ちが、いかにも医師らしく冷静な筆致でのべられている。

 著者は事故発生当時から内部被曝の怖さを力説している。だが国には国民の立場に立っているとは思えず、ハナから危機管理の姿勢がみえていないと説く。国家がもっともやらねばならないのは国民の生命をまもることだが、その認識が政府にあるかどうか疑わしいというのである。そして次のようにのべている。

「政治家や官僚、あるいは研究者は「統計」や「集団」という形で物事を考えたり、処理しがちだ。だが、チェルノブイリでの経験から私が強く願うのは、目を向けるべきは、個々のケースであるということだ。たとえ、統計上は甲状腺ガンの致死率が他のガンに比べて高くないとしても、現実には病と闘う子どもがいて、時に命を落とす子どもがいた。本人の辛さや哀しみ、家族の切ない思いのを目の当たりにすると、ひとりひとり、個々の命こそが大切であることを改めて痛感する。机の上で何をどう分析しても、命を失う痛みはわからない。」

 こどもたちひとりひとりの生命によりそってものごとを考える。本書はまさに、著者自身が被爆によって多発した甲状腺ガンに苦しむベラルーシの子どもたちとその家族によりそった迫真のドキュメントである。

 チェルノブイリの事故、あれはベラルーシ、他国の出来事……と思ってはならぬ。ベラルーシと同じ状況が5年後、10年後、わが国にやってこないという保証はどこにもない。著者はそのように警鐘をならしている。

 そういう意味で、この時期に、本書を文庫にしたのは時宜を得た出版というべきで、twitterでものべたように、刊行した新潮文庫の姿勢を高く評価しておきたい。



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2011-07-20
ボートレーサー江口晃生の『ベテラン力』(ぶんか社)を読んだ!




 いざ出陣!「恐れるな、挑め」
 ボートレーサーの江口晃生は、いつもそのようにtwitterに書いてレースにのぞむ。いわば、みずからを鼓舞する儀式というわけなのだろう。

 江口晃生は1965年生まれだから今年46歳、ボートレーサーとしてデビューから27年、いまや選手としてベテランの部類にはいる。競艇で最高峰のレースであるSG競争を2度制覇、いまもなお第一線で踏ん張っている。

 モーターの整備力に非凡の才があり、勢いよりもテクニックで勝負するレーサーである。だからこそ45をこえても、レーサーとして最上位のクラスランク「A1」をキープしているのだろうと思う。

 つねに自分にきびしく、レースでもいっさい妥協というものがない。二年まえに早稲田大学の大学院に進んだのも、ただの気まぐれではないだろう。「ボートレース界に恩返しがしたかった」と本人はのべている。

 かくして2009年、かれは公営競技の選手として初めて大学院に入学、あの桑田真澄とともにスポーツ科学研究科で学んだのである。卒業論文の「ボートレース界のさらなる発展に向けた改善策に関する研究」は最優秀論文賞をうけた。

 その江口晃生がこのほど『ベテラン力』(ぶんか社刊)という本を出した。「極みに挑み続ける男達の才覚」というサブタイトルにもあるように、江口とおなじく、いまなおスポーツの各分野で輝きを放つベテランアスリートたちをとりあげた対談集である。

 スポーツの分野で「経験」はなによりの財産、「ベテラン選手たちが大切にしてきたその宝物に、ほんの少し触れさせていただくことで、私にとっても、またこの本を手に取ってくれた方にも、新しい可能性を発見できればと思っています」とあり、四〇歳代以上のおじさんに元気をあたえ、その生き方をポジティブにしょうというのである。

 江口の対談相手として登場するのは船木和喜(36歳)、工藤公康(48歳)、中澤佑二(33歳)、武豊(42歳)、山本博(48歳)、田臥勇太(30歳)の6人である。それぞれトップをきわめたアスリートゆえに、その言葉と語り口がおもしろい。

 20歳で金メダリストになった船木和喜、その後、どんぞこまで堕ちた。「落ちるところまで落ちて。プライドは粉々になりましたね。粉々になったプライドを拾い集めていたら、多分、他の物も拾えたのでしょうね。以前の自分よりも大きくなっていたんです」

 48歳になってもいまだに現役にこだわる工藤公康は、ながくプレーするには体力よりも技術こそが重要だと説き、いまだに技術の研鑽をおこたらない。「僕は調子のいい選手がいたら、なぜあの選手は勝てるのだろうって、すごく研究するんです。それで、このやり方がいいんじゃないかと、このトレーニングがいいんじゃないかって考えるんですけど、こっちが正しいという直感はベテラン選手のほうが持ってると思うんです」

 あの中澤佑二が江口の前では飾らずに本音をさらけだしている。「サッカーでも活きのいい選手がどんどん出てくるし、勝ち気な選手もいます。そいつらを経験で抑えるというのは、ベテランからすればひとつの楽しみですよね。相手のドリブルを止めたときなんて、「この野郎! まだ世代交代しねえぞ」て思いますから」とのべ、そのために若い選手が10がんばったら、自分は11、12がんばるという。

 武豊といえば競馬をやらない人にも知られるほどのトップジョッキーだが、後輩に聞かれたら自分の技術を教えたりするか、と江口にたずねられて、「聞かれたらやっぱり答えますね。僕は日本の競馬を全体的にレベルアップしていきたいって思っているんです。今の競馬界は、外国人ジョッキーがすごく活躍するようになってきたんで、みんなでレベルアップしていかないとダメだと思ってます」とのべるのだが、そんな武豊も海外にゆくと知らない厩舎をおとずれ、まるで新人ジョッキーのように「日本から来た武です。チャンスをください」と言ってまわる。つねに初心をわすれない。

 アーチェリーの山本博は6人のうちで工藤とならんで最高齢だが、つぎの一言が印象にのこった。
「歳を取ると誰だって、変化することに対応しづらくなっている部分があると思うんです。信念を持つことは大事なんだけど、信念を持って自分を変化させることも、また大事だと思うんですよ。だから僕は、同じ頑固親父になるなら、自分を変えてゆくことに頑固になりたいですね」

 いちばん若い田臥勇太は、アメリカに渡り日本人として初めてNBAでプレーしたバスケットボールの選手である。アメリカでいつ解雇されるかわからないという状況に身をおいてきた。「僕はいろんな所でプレーしてきて、なぜ?って思うことも多々あったんですけど、それでもあきらめずにやるしかなかったんです。もう、折れたほうが負けですよ。何も悪いことをしてないのに文句を言われたり、相手にされなかったりいっぱいあったんですけど、全部モチベーションにしました」チャンスがめぐってきたときに逃さないように、自分しかできないこと、自分の得意なことに磨きをかけたっというのである。

 いかにも修羅場をくぐってきたアスリートならばこその言葉である。ボートレーサーとしての自らを語りながら聞き手をつとめる江口、だが6人すべてが江口のまえでは、気負うことなく素直に本音をさらけでしている。トップアスリートから重みのあることばを引き出したのは、ひとえに著者の人徳によるものだろう。

 江口がこの本で、いちばん言いたかったのは何なのか。文中のかれのことばでいえば次のようになるだろう。
「どんな仕事でもそうなんですが、大切なのは自分からアクションを起こしてチャンスを掴みにいくことだと、私は思っています。そのチャンスをものにできるかどうかはわかりませんが、動き出さない人にはきっと出会いもない」

 江口はこのように書いている。四〇をすぎて大学院に進んだのも、この本を書いたのもそういう持続するチャレンジ精神の所産なのだろう。ベテランでも、というよりもベテランだからこそ、そういう初心を忘れてはならないのだと言いたげである。
「恐れるな、挑め」というかれの信条にこめられた想いが具体的なかたちでそこにあるように思った。



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2011-06-16
太宰治賞の授賞式

 昨夜、丸の内の東京會舘で第27回太宰治賞の授賞式があった。毎年この日に、まさに一年にいちど会える人が何人かいるので今年も行ってきた。

 同賞は第14回(つまり小生の受賞したとき)以降、20年も中断している。主催する筑摩書房が倒産したからである。1999年から再開され、筑摩書房だけでなく三鷹市が加わって共催のかたちとなった。

 もともと太宰賞の授賞式は、著名な作家や編集者、出版関係者が多く顔を見せ、いかにも文学者の集いという雰囲気だったらしい。けれども小生は不幸にもその時代を知らないのである。

 他人の授賞式に出席したのは再会後の授賞式だが、三鷹市との共催となったせいだろう。当然のこととはいえ、雰囲気が変わり、お役人さんとギョウカイの人がやたらと多くなったように思う。文学者の集い…という雰囲気はすっかりなくなったしまった。けれども資金的なバックアップをすべてゆだねているのだから、これは、しかたがない。

 ひとつ不思議に思うことがある。三鷹市のような行政が加わるということ、そうなると受賞者に与えられる賞金は税金から出ていることになる。市民の血税から捻出されているのである。

 はたして、これでいいのだろうか?

 文学というもの、太宰賞が対象とするような純文学的作品は、かならずしも、お行儀のいい世界ばかりを描くわけではない。端的にいえばもともとアナーキーなもの、ごく普通の社会生活に背をむけるスタイルをとるものもある。エロ、グロ、暴力……、素材としてはナンデモアリの世界なのである。

 世間の常識に背を向けるような作品が出てきたとき、税金がつかわれても、それが文学的に優れているとして、容認できるだけの度量が行政側にも、税金を払う市民にもあるのだろうか。それらを排除する方向に進めば、文学のめざすところとは、およそ正反対の方角にいってしまう。そこのところが、いつも気になる。

 今回の受賞者は東京在住の男性、いわば実験的な作品である。選評をのべた加藤典洋さんのスピーチがおもしろかった。

 「わけのわからなさ」が、おもしろくて積極的に推したというのである。作品全体が、よくわからない、けれども、受賞に値すると思ったというのだから、聞いているほうは、もっとわからなくなってしまった。

 その「わからなさ……」の実態が何であるか。たしかめるために、これから受賞作を読んでみることにする。

 



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2011-06-15
新島八重さん、本がなくなりそうです!

 奇妙な現象がおこっている。
 小生の著者に、山本八重(のちの新島八重)を主人公にした小説が2冊ある。『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)と『新島襄とその妻』である。

 後者は朝日放送創立35周年記念番組としてテレビドラマ化された作品でもある。ドラマスペシャル「女のたたかいー会津から京都へ」として1985年11月1日放映されている。2時間20分におよぶという現在では考えられない長時間番組であった。(http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-22308)

 前者は八重の会津時代を描いたもの、後者は八重が兄をたよって京都にやってきて新島襄と結婚、ともに歩むものがたりである。

 むろん両著ともに絶版になっており、街の書店で新本を入手することはできなくなっている。著者の小生も、気がついたら控えだけになってしまっていた。

 市場にはなくても、著者のもとになら本があるだろう……と、ときおりたずねてくださる奇特な読者から問い合わせをうけるのだが、そんなときはAmazonの古本販売サイト「マーケットプレース」でどうぞ……と、ご案内することにしている。

 同書はテレビドラマにもなり、わりあいよく出た本なので、マーケットプレイスには常時10冊以上ならんでいた。状態の良悪におうじて600円~1000円前後というのが相場であった。何を隠そう。著者の小生も手もとに本がなくなって2冊ばかり買ったことがあるのである。

 ところが、昨日の夜、のぞいてみると、高価なコレクター向けの品(おそらく状態がすこぶるいいのだろう)の2冊(なんと2,970円と高い!)をのぞいて、すべて売り切れてしまっているではないか。

 新島八重が13年の大河ドラマでとりあげられるという新聞報道(6/12)がなされてから、にわかに、なくなってしまったらしいのである。メディアの力とはすごいものだとあらためて痛感させられた。

 古書サイトのインターネットサイト「日本の古本屋」で検索すると『新島襄とその妻』のほうは8点がラインナップされており、状態の良し悪しで600円から2,500円と、やはり高い品しかのこっていない。

 もうひとつ「古書ー紫式部」では3冊がヒットした。これら11冊も早晩、姿を消してしまうことだろう。

『会津おんな戦記』のほうは、もはやインターネットによる古書も品切れになってしまっているのを知って唖然とした。

 何とかしてください……なんて、熱心な読者に泣きつかれたらどうしようか。困ったことになったなあ……と、なんとも複雑な思いをしている。(笑)

こんなとき、襄先生なら、どんなふうにお答えになるのだろうか。いぢととっくり訊いてみたいものである。



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2011-05-20
結果が怖いから、検査してないって? ちょっと待ってんか




今朝の「読売新聞」埼玉版をみて、びっくり仰天、あ然としました。

 福島原発から200㎞もはなれている埼玉は放射性物質の汚染される可能性はきわめて低いといわれ、そういうみかたはは妥当性があるものとおもってきましたが、どうやらそうではないようです。

 水と農産物の放射能汚染が深く静かに潜行しているようで、気がついたら知らぬは県民ばかり……という事態になりそうな気配です。

 事実、4月の上旬に東飯能と熊谷の牧草地で高濃度の放射性物質が検出されており、安全圏ではないことが明らかになっております。

 あれ、あれ、ちょっと待ってチョウダイよ……と仰天したのは、県は農産物について放射性物質の検査を放擲してしまっているという事実です。検査機関の手がまわらないという現実もあるようですが、そのまえに、まったくハナから検査する気がないようです。

 とりあえず量的に多い品種について検査をしようというわけで、検査をおこなったのはハウス栽培のほうれん草のみ、それで埼玉の農産物は基準値以下などといっているのですから、恐れ入りやのなんとやら……です。

 ハウスものが基準値以下なのはあたりまえの話。おどろいたことに露地ものの農産物についてはいっさい検査をやっていません。高濃度の数値が出るのが怖いからだというのですから、あきれ果てるじゃありませんか。

 今後も検査をやるつもりはないようです。県はビビッているのです。もしダメだということになれば補償問題もからんでヤヤコシイことになるので、触らぬ神に祟りなし……を決めこむ腹づもりのようです。いかにも、小心者のお役人の考えそうなことです。

 県民の健康をまもるという気など毛頭ありません。農協と農家に圧力をかけられて腰砕けになっているようです。なにもやらないことでもって、国と東電、農家の擁護にまわり、ひいては我が身の保身に走ってしまったのです。職務怠慢じゃないの。給料返せ…と、

 だから埼玉の野菜はアブナイのです。安全ではありません。埼玉の農産物でわすれえてゃならないのは「茶」です。「茶」といえば、先に神奈川で高濃度の放射性物質が検出されて大騒ぎになりましたが、神奈川がダメなら、埼玉が無事であるはずがありません。

 全国的に有名な狭山茶ですが、むろん県は放射性物質の検査をしていません。これも結果が怖いからやらないのです。検査をしていなから安全だという。それって犯罪的じゃないのかなあ。お茶はまちがいなくアブナイのです。

 もっともわが家は、もともと狭山茶の本場に住みながら、狭山茶を飲んでいません。(笑)なぜか奈良の農家からの茶をとりよせているのです。「アホちゃうか。そちらは狭山茶があるのに、どうして?」と農家の人に不思議がられているしまつです。

 ところで放射性物質、国内法的にも国際法的にも、一般人の許容範囲は年間1ミリシーベルト以内です。これでも安全が化学的に保証されているわけではありません。それ以上にすると原子力産業が立ちゆかなくなるから、妥協の産物としてきめられた数値なのです。

 しかし、まあ、放射能が悪さをするのは20年~30年後ですから、高齢のぼくらには関係のない話になります。狭山茶を飲み、東北や関東圏の野菜、肉類、三陸の魚をどんどん食ってもいいのです。そしておおいに被爆して、放射能は墓場にもってゆけばよろしい。

 ところが将来あるこどもはあきまへん。東北はもちろん関東圏で生産される食品を喰うてはあかんのです。喰うたもの…からだけでなく、肺で吸ったもの、触ったもの、浴びたもの、足し算、かけ算で合わせ技一本、そしてオダブツとなります。

 放射性物質の問題は松本市市長の菅谷昭さんがおっしゃるように、つねに最悪の事態を想定して、あの手この手で対策を講じておかなければならない…という話、ますます説得力が出てくるようです。

 とにかく、まだまだ突っ込みが足りませんが、今朝の読売新聞(埼玉版)の勇気に、まずは拍手喝采をおくりたいと思います。昨今はファッショさながらの時世になり、東電、原発に批判的な言動をとれば、ただちに俳優やタレント、歌手、コメンテーターなどすべてテレビやラジオの番組から降板させられ、学者やジャーナリストも村八分にされるようですから、よくぞ、ここまで踏み込んでくれたものです。

 そんなわけで、朝っぱらから、「なんでやねん」と、後手後手にまわっている県のありようにあきれ、けれども、後手後手にまわっているのは国もしかりだから、この問題はつまるところ自己責任で対処するほかないのかなあ……と、ひとりごちておりました。



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2011-05-17
吉村昭『三陸海岸大津波』を読む!



「 津波は自然現象である。ということは、今後も反復されることを意味している。
 海底地震が頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大被害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていいい。津波は今後も三陸海岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」

 吉村昭著『三陸海岸大津波』(文春文庫 2004年3月刊 460円)の一節である。同作はもともと『海の壁ー三陸沿岸大津波』として中央公論社から1970年7月に刊行されている。 1984年に中公文庫となって、読み継がれ、さらに2004年には文春文庫となって復活した。今回の東日本大震災で、作者の慧眼におどろき、再認識させれれるところがおおくあった。

 東日本大震災をみるに、はからずも著者の予感どうりになってしまったというほかない。三陸海岸を襲った津波は過去400年のうち、大小あわせて40あまりもあるという。そのなかで大津波として記録されているのは明治9年(1896年)と昭和8年(1933年)のものである。

 著者はこの二つの大津波をとりあげている。みずから三陸海岸をあるき、津波の体験者をたずね、直接話を聞いて「記録すること」に徹している。虚飾を廃して、圧倒的な事実の積み重ねによって「大津波」の凄まじさを浮き彫りにしている。

 明治9年の大津波は死者26,360人、流失家屋9,879戸。最も被害を受けたのは岩手県であり、被害の規模からみれば、今回の東日本大震災と類似点がおおい。

 なかでも田老町は激甚をきわめ、23メートルをこえる津波で一戸のこらず流失した。さらに同町は昭和8年のときも村ごと津波にのみこまれてしまったのである。

 津波の猛威について、著者は体験者の記録を整理して明らかにしている。経験者ならではの表現ゆえに、その恐怖はそくそくと伝わってくる。なかでもリアリティにみちているのが、小学校生徒たちの作文である。そのひとつをあげておこう。

「……
 表に出て下の方を見下しますと、あっちこっちにごろごろと沢山の死体がありました。布団を着たまま死んでいる人もあれば、裸になって死んでいる人もありました。
 お昼ごろに、叔父さん達がもどって来ましたので、
「何人見付けたべえ」
 と聞いたら、二人といった。だれとだれかはわからないので又聞いた。すると叔父さんは、泣きながらお父さんとおじいさんといって涙を流しました。
 私の眼からも涙が流れました。母さんや静子はどこにいるのだろうと思うと悲しくなって、ただ大声で泣きました。(中略)
 だんだん日がたって、何時の間にか岡に死体が見えなくなりました。私が、いつもの口ぐせに、
「叔父さん、お母さんたちは見つからないの」
 と聞くたびに、叔父さんは目に涙をためて、
「お母さん達は、たしか海に行ったろう」
 と言うのでした。
 私は死体が海から上がったという事を聞くたびに胸がどきどきします。私は、一人であきらめようと思っても、どうしてもあきらめる事は出来ません。三度三度の食事にも、お父さんお母さんのことが思い出されて涙が出てきます。
 町を通るたびに、家の跡に来ると何だかおっかないような気がします。近所の人々は。「アイちゃん、何してお父さんをひっぱって馳せないよう(どうして無理にもお父さんをひっぱって走らなかったんだよう)」
 といって、眼から出てくる涙を袖でふきながら、私をなぐさめてくださいます。
 私は、ほんとに独りぼっちの児になったのです。」(「津波」 尋六 牧野アイ)

 悲惨な状況と当時、尋常6年だった少女の深い悲しみが胸に迫ってくる。ぼくが大津波を畏怖するのは、死者や行方知れずの人たちの多さではない。ある日とつぜん、父や母を奪い去られ、平穏な日常からまるで生き地獄のような奈落に突き落とされたという、ひとりひとりの具体的な現実そのものなのである。

 田老町は今回の震災でも死者129名、行方不明71名、多数の家屋を流失した。過去2回の大津波の教訓から同町は「防災宣言の町」として生まれ変わり、松の防潮林、「万里の長城」と称される総延長2.4km、高さ10mの日本一の防潮堤をつくり、松の防潮林をととのえた。町の避難路はすべて高台に向かい、「隅切り」と呼ばれる十字路の見通しを確保するなど、防災の工夫を二重三重にこらしていた。

 だが、今回の大津波は、そのシーンはテレビでも放映されたように、自慢の防潮堤を軽々とこえてしまったのである。

 津波の高さを正確に測るのはむずかしい……と著者の吉村昭は書いている。たとえば明治29年の大津波だが、学者の想定では10~24メートル、ところが著者が集めた証言のなかには50メートルに達していた。

 今回の大津波はどれほどの高さだったのか。それはこれから検証されるのだろうが、20~50メートルの規模ともなれば、もはや海辺には人間は住めないだろう。逆にいえばいままで人が住んではならないところに家を建てて暮らしていたということになる。

 復興の地図ははそういう事実をふまえたうえで描かねばならないのだろう。ただ何も考えずに、被害地をもとのすがたを復元するのだったら、20~50メートルもの防潮堤をつくらねばならないことになる。これはまさにバベルの塔というべきで、現実的に不可能ではないだろうか。 読了後、ふと、そんなことを考えていた。
 



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