2012-04-12
川崎尚之助、山本覚馬、そして大木仲益のこと

昨年の6月、2013年のNHK大河ドラマが「八重の桜」と題して、新島襄の妻である八重の生涯をとりあげると発表されたから、八重の最初の夫である「川崎尚之助」についての問い合わせが数多く、わがホームページのアドレスによせられています。

 八重を主人公にした小説作品『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)と『新島襄とその妻』(新潮社刊)、いずれも30年前の作だが、その作者であるからでしょう。

 小説作品だから人物造形はむろんフィクションですが、来歴や事跡については、当時できるかぎり調査した史実にもとづいています。だから、作品に書いたとおり、あれがすべてです…と、お答えすることにしています。

 川崎尚之助は、いまだ謎の多い人物です。今回の一連の大河騒動がきっかけで、謎の部分が史家によって明らかにされるのではないかと期待していますが、事実分からない部分が多いのです。

 川崎尚之助は但馬国出石藩の医師の子として生まれ、安政四年の秋ごろ会津にやってきています。 八重の兄山本覚馬がつくった藩校日新館の蘭学所の教授になるのですが、覚馬が自分の職俸から四人扶持を与えようとしたほどの惚れこみようでした。尚之助は山本家に投宿しるようになり、やがて八重と結婚するのですから、覚馬が江戸遊学中に知り合った人物とみていいでしょう。

 尚之助は洋書によって学理を講じ、さらに西洋式の銃法の鋳造、弾丸の製造法などの指導にあたり、覚馬とともに、会津藩の西洋式砲術の導入におおきな役割をはたしました。
 蘭学所の洋砲伝習科はやがて学校奉行からはなれ、大砲方として軍事奉行の配下になるのですが、終始、尚之助は教授人をつとめています。

 八重と尚之助の結婚は慶応元年(一八六五)ごろとみていますが、もとより当人同士の意思によるものではありません。尚之助はそのころ会津にやってきて、およそ八年たっていましたが、日新館の教授人であるものの、まだ藩士として登用されていませんでした。藩士の子弟の婚姻にはむろん藩庁の許可が必要ですから、藩籍をもたない尚之助と八重の結婚はふつうでは考えられません。

 二人の縁組みは当人たちのあずかりしらぬところで、意図的にしくまれていたと考えるほかありません。得がたい人材である尚之助を会津にとどめておくために八重を妻合わせたというのは、まったくありえない話でもないでしょう。

 とくに覚馬が京都勤番になってから、会津の銃砲について技術的にサポートできるのは、もはや尚之助しかおらず、かれの存在感がそれほど増していたことは確かです。二人の縁組には覚馬の影が見え隠れしており、二人の結婚は兄の意思でもあるとしたら、八重は一も二もなくうけいれたとみます。

 尚之助は八重とともに籠城戦を戦いぬき、開城の直前に脱出して会津を去ったとみていますが、、およそ一一年間にわたって会津の弱点というべき銃砲による戦略を、おもに技術者として支えつづけたのです。

 尚之助は蘭学のほかに、舎密術(理化学)の知識もあり、砲術の専門家であり、江戸では加藤弘之と並ぶ、新進気鋭だったというのですが、いったい、どこの誰に学んだのか。どこで覚馬と知り合ったのか。

 小説書きの小生としては、尚之助は従たる人物なので、あまり深追いはしませんが、その一点だけは長いあいだこだわりつづけていました。容易に謎は溶けだしてきませんでしたが、このほど八重をめぐる新書(8月刊)執筆(すでに脱稿)途上の資料漁りで、偶然にもいくらか糸口がみえてきました。

 接点が江戸だとすれば、覚馬が江戸にいたころの人脈に連なっているにちがいありません。覚馬が砲術修業した師は佐久間象山、江川担庵、下曾根金三郎、勝海舟、さらに『改訂増補山本覚馬傳』によると大木衷域のもとで蘭学を学んだとあります。

 ところが大木衷域なる蘭学者は存在しません。そこで大木という蘭学者を探しつづけ、衷域ではなくて、忠益あるいは仲益であるというところにたどり着きました。さらに加藤弘之の経歴を調べてみると、安政元年に蘭学者大木仲益のもとに入門したとあるのです。

 大木仲益(幼名:忠益)ならば米沢出身の蘭方医で、坪井信道に蘭学を学び、芝浜松町の坪井塾の塾頭をつとめていました。当時の兵学ブームに乗って、洋式兵法書や砲術書の翻訳の仕事も精力的にこなしております。仲益はほどなく坪井信道の女婿になり、薩摩藩に迎えられ、坪井為春と改名、島津斉彬の侍医になってゆく人物です。

 おそらく『改訂増補山本覚馬傳』の編者は忠益あるいは仲益の読みを誤認したうえ、さらに誤った漢字をあてた。よくあることです。

 尚之助はこの大木仲益のもとで同じ藩の加藤弘之とともに修業した人物とみてまちがいないでしょう。ペリーの来航以来、当時の蘭学者は砲術書などの翻訳がおもな仕事でしたから、かれも翻訳の仕事を通じて砲術を中心とした理化学を学んでいたと情勢判断します。

 そこらあたりも含めて、こんどの新書で、少し触れてあります。



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2 コメント:

伊藤哲也 さんのコメント...

はじめまして。伊藤哲也といいます。来月出版される雑誌に川崎尚之助の埋もれていたことを史料をもとに書きます。会津で出た地方誌にも誰も掲載していない史料を掲載したりしました。・・・・・同志社に写真を使用したので献本することになってました。詳細は、来月。
 同志社の方が誰も知らないと言われたことも来年、会津にて書きます。突然ながら失礼しました。

2012年5月5日 1:02

伊藤哲也 さんのコメント...

こんにちは、伊藤哲也です。既に脱稿済でしたか。
>日新館の教授人であるものの、まだ藩士とし>て登用されていませんでした。
 藩士として登用されたことになります。戊辰戦争中に、そうでなくても登用されたことになるのは史料からわかります。古文書の画像が公開されていない部分も4月に活字化済。5月にまた出ます。

>尚之助は八重とともに籠城戦を戦いぬき、開>城の直前に脱出して会津を去ったとみていま>すが、、
 それが、誤りであったことも一次史料をもとにして書きました。私の場合は史料の写真も掲載していますので誤りがありません。

2012年5月6日 17:11

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