2011-06-16
太宰治賞の授賞式

 昨夜、丸の内の東京會舘で第27回太宰治賞の授賞式があった。毎年この日に、まさに一年にいちど会える人が何人かいるので今年も行ってきた。

 同賞は第14回(つまり小生の受賞したとき)以降、20年も中断している。主催する筑摩書房が倒産したからである。1999年から再開され、筑摩書房だけでなく三鷹市が加わって共催のかたちとなった。

 もともと太宰賞の授賞式は、著名な作家や編集者、出版関係者が多く顔を見せ、いかにも文学者の集いという雰囲気だったらしい。けれども小生は不幸にもその時代を知らないのである。

 他人の授賞式に出席したのは再会後の授賞式だが、三鷹市との共催となったせいだろう。当然のこととはいえ、雰囲気が変わり、お役人さんとギョウカイの人がやたらと多くなったように思う。文学者の集い…という雰囲気はすっかりなくなったしまった。けれども資金的なバックアップをすべてゆだねているのだから、これは、しかたがない。

 ひとつ不思議に思うことがある。三鷹市のような行政が加わるということ、そうなると受賞者に与えられる賞金は税金から出ていることになる。市民の血税から捻出されているのである。

 はたして、これでいいのだろうか?

 文学というもの、太宰賞が対象とするような純文学的作品は、かならずしも、お行儀のいい世界ばかりを描くわけではない。端的にいえばもともとアナーキーなもの、ごく普通の社会生活に背をむけるスタイルをとるものもある。エロ、グロ、暴力……、素材としてはナンデモアリの世界なのである。

 世間の常識に背を向けるような作品が出てきたとき、税金がつかわれても、それが文学的に優れているとして、容認できるだけの度量が行政側にも、税金を払う市民にもあるのだろうか。それらを排除する方向に進めば、文学のめざすところとは、およそ正反対の方角にいってしまう。そこのところが、いつも気になる。

 今回の受賞者は東京在住の男性、いわば実験的な作品である。選評をのべた加藤典洋さんのスピーチがおもしろかった。

 「わけのわからなさ」が、おもしろくて積極的に推したというのである。作品全体が、よくわからない、けれども、受賞に値すると思ったというのだから、聞いているほうは、もっとわからなくなってしまった。

 その「わからなさ……」の実態が何であるか。たしかめるために、これから受賞作を読んでみることにする。

 



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