「 津波は自然現象である。ということは、今後も反復されることを意味している。
海底地震が頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大被害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていいい。津波は今後も三陸海岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」
吉村昭著『三陸海岸大津波』(文春文庫 2004年3月刊 460円)の一節である。同作はもともと『海の壁ー三陸沿岸大津波』として中央公論社から1970年7月に刊行されている。 1984年に中公文庫となって、読み継がれ、さらに2004年には文春文庫となって復活した。今回の東日本大震災で、作者の慧眼におどろき、再認識させれれるところがおおくあった。
東日本大震災をみるに、はからずも著者の予感どうりになってしまったというほかない。三陸海岸を襲った津波は過去400年のうち、大小あわせて40あまりもあるという。そのなかで大津波として記録されているのは明治9年(1896年)と昭和8年(1933年)のものである。
著者はこの二つの大津波をとりあげている。みずから三陸海岸をあるき、津波の体験者をたずね、直接話を聞いて「記録すること」に徹している。虚飾を廃して、圧倒的な事実の積み重ねによって「大津波」の凄まじさを浮き彫りにしている。
明治9年の大津波は死者26,360人、流失家屋9,879戸。最も被害を受けたのは岩手県であり、被害の規模からみれば、今回の東日本大震災と類似点がおおい。
なかでも田老町は激甚をきわめ、23メートルをこえる津波で一戸のこらず流失した。さらに同町は昭和8年のときも村ごと津波にのみこまれてしまったのである。
津波の猛威について、著者は体験者の記録を整理して明らかにしている。経験者ならではの表現ゆえに、その恐怖はそくそくと伝わってくる。なかでもリアリティにみちているのが、小学校生徒たちの作文である。そのひとつをあげておこう。
「……
表に出て下の方を見下しますと、あっちこっちにごろごろと沢山の死体がありました。布団を着たまま死んでいる人もあれば、裸になって死んでいる人もありました。
お昼ごろに、叔父さん達がもどって来ましたので、
「何人見付けたべえ」
と聞いたら、二人といった。だれとだれかはわからないので又聞いた。すると叔父さんは、泣きながらお父さんとおじいさんといって涙を流しました。
私の眼からも涙が流れました。母さんや静子はどこにいるのだろうと思うと悲しくなって、ただ大声で泣きました。(中略)
だんだん日がたって、何時の間にか岡に死体が見えなくなりました。私が、いつもの口ぐせに、
「叔父さん、お母さんたちは見つからないの」
と聞くたびに、叔父さんは目に涙をためて、
「お母さん達は、たしか海に行ったろう」
と言うのでした。
私は死体が海から上がったという事を聞くたびに胸がどきどきします。私は、一人であきらめようと思っても、どうしてもあきらめる事は出来ません。三度三度の食事にも、お父さんお母さんのことが思い出されて涙が出てきます。
町を通るたびに、家の跡に来ると何だかおっかないような気がします。近所の人々は。「アイちゃん、何してお父さんをひっぱって馳せないよう(どうして無理にもお父さんをひっぱって走らなかったんだよう)」
といって、眼から出てくる涙を袖でふきながら、私をなぐさめてくださいます。
私は、ほんとに独りぼっちの児になったのです。」(「津波」 尋六 牧野アイ)
悲惨な状況と当時、尋常6年だった少女の深い悲しみが胸に迫ってくる。ぼくが大津波を畏怖するのは、死者や行方知れずの人たちの多さではない。ある日とつぜん、父や母を奪い去られ、平穏な日常からまるで生き地獄のような奈落に突き落とされたという、ひとりひとりの具体的な現実そのものなのである。
田老町は今回の震災でも死者129名、行方不明71名、多数の家屋を流失した。過去2回の大津波の教訓から同町は「防災宣言の町」として生まれ変わり、松の防潮林、「万里の長城」と称される総延長2.4km、高さ10mの日本一の防潮堤をつくり、松の防潮林をととのえた。町の避難路はすべて高台に向かい、「隅切り」と呼ばれる十字路の見通しを確保するなど、防災の工夫を二重三重にこらしていた。
だが、今回の大津波は、そのシーンはテレビでも放映されたように、自慢の防潮堤を軽々とこえてしまったのである。
津波の高さを正確に測るのはむずかしい……と著者の吉村昭は書いている。たとえば明治29年の大津波だが、学者の想定では10~24メートル、ところが著者が集めた証言のなかには50メートルに達していた。
今回の大津波はどれほどの高さだったのか。それはこれから検証されるのだろうが、20~50メートルの規模ともなれば、もはや海辺には人間は住めないだろう。逆にいえばいままで人が住んではならないところに家を建てて暮らしていたということになる。
復興の地図ははそういう事実をふまえたうえで描かねばならないのだろう。ただ何も考えずに、被害地をもとのすがたを復元するのだったら、20~50メートルもの防潮堤をつくらねばならないことになる。これはまさにバベルの塔というべきで、現実的に不可能ではないだろうか。 読了後、ふと、そんなことを考えていた。
Takehisa Fukumoto's essay and column studio
2011-05-17
吉村昭『三陸海岸大津波』を読む!
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このBlogは小説書きの福本武久が「京おのこ」としてmixiにアップしている日記を再録したものです。
筆者が「見たこと」「聞いたこと」「考えたこと」を備忘録がわりにランダムに書き記してゆきます。自身の書く小説の舞台裏だけでなく、30年間追っかけている「駅伝・マラソン」のこと、仕事をはなれて、「競馬」や「競艇」についてのトピックやエッセイなど……。
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