2011-04-19




 江戸時代……。武州川越(現川越市)は東国の穀倉といわれ、あらゆる物資の集散地でした。川越にあつまった諸物資は陸路(川越街道)ではなく、舟にゆられて江戸に運ばれてゆきました。

 荒川の西側にあって、川越城下よりにほぼ一里の間隔を保ち、並行して流れる細い川筋が現在もあります。それが松平伊豆守がひらいたという新河岸川です。今ではほとんど知られることのないこの新河岸川は、川越と江戸を結ぶきわめて重要な水路でした。川越には扇河岸、上・下新河岸、牛子河岸、寺尾河岸の5つの河岸がひらかれ、新河岸川にはつねに300~500艘もの高瀬舟が往来していたのです。

 川越を発った舟は新河岸川をくだり新倉で荒川に合流、千住、花川戸(浅草)まで、荷船は日本橋、箱崎までゆくのでした。

 俵物(米穀)、木材、甘藷、素麺、醤油、炭(青梅)、杉皮、石灰などを舟路で運んだのです。

 川越夜舟としてしられる貨客船は川越を宵に出発すれば、翌日の昼には花川戸(浅草)に到着、陸路よりもはるかに速かったのです。

 新河岸川をくだった舟は生活必需品を満載して帰帆しました。織物、塩(赤穂)酒、酢、砂糖、鮮魚、肥料(尾張糠、干鰯、木灰、油粕)、藍玉、鉄器類。変わったところでは熱海の温泉を樽詰めにしてはこんだという記録もあります。それらは川越だけでなく、秩父、甲斐、信濃までとどけられました。

  江戸と川越をむすぶこの新河岸川を舞台にした小説『武州かわごえ 繋舟騒動 』をこのほど電子書籍とオンデマンド印刷本でBookWay から刊行しました。

 嘉永3年、藩をゆるがす大騒動……。

 舟賃の値上げをめぐって、船頭、舟問屋、川越商人が3つどもえの様相! 船頭たちは2度にわたって舟を繋ぐという実力行使に出たのです。江戸では米騒動が起こり、川越では諸物価が高騰してたいへんな騒ぎとなりました。

 本作品は河岸のリーダー・炭屋半蔵が、利害対立する舟問屋をとりまとめ、川越藩、船頭、商人、街道の馬子たちの間に立って奔走する姿をえがいた歴史・時代小説です。

 興味がありましたら、まずサイト で立ち読みしてみてください。

 370頁もある長編を電子端末で読むのはかなり骨でしょうね。おそらく売れないでしょう。(笑) それでも読んでやろう……という奇特なお方がおられたら、価格は少し高くなりますが、オンデマンド印刷本 (注文に応じて1冊から印刷製本する)バージョンで、読んでいただければ……と著者として、なんともはやムシのいいことを希っております。



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