芝・増上寺の大殿の裏側に徳川家のお墓(霊廟)がある。このところ花の季節にやってきているが、いつも門がかたくとじられており、雰囲気だけしかうかがえないのだが、今年は門がひらかれており、おりから公開中であった。
門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものだという。写真はmixiの掲載制限ゆえにのっけることができないが、左右の扉(青銅)には葵紋が五つづつ配されており、両脇には昇り龍・下り龍のすがたが鋳ぬかれている。なかなか立派なものである。
門から一歩ふみいれると、正面右に二代秀忠、左に六代家宣の宝塔があり、左右に三つづつ宝塔がならんでいる。右側は七代家継、九代家重、一二代家慶、左は14代家茂、静寛大院和宮、将軍生母側室等である。
もともと増上寺の境内はきわめて広大なもので、現在のプリンスホテルなんかも敷地内であった。徳川家のお墓も南北にひろがっていたという。現在の墓所は土葬の遺体を昭和33年に掘りおこして、それぞれ荼毘にふし、改葬したものだという。
旧国宝の唐門をはじめ、あちこちにあった宝塔も寄せ集めて、現在のせまい墓所にとじこめられたというわけである。将軍さまたちはさぞ窮屈なおもいをしていることだろうなとおもった。
「天璋院篤姫」に登場した家茂と和宮(静寛院)の宝塔はもともと夫婦そろって並んでいたというが、改装後の現在も両人の宝塔は向かって左側の列でとなりあわせに配されている。ただし家茂のは石塔だが、和宮のものは青銅製になっている。
和宮が死んだのは明治10年であり、明治になってからつくられたからだという。同寺の印刷物によると、明治になってつくられた墓はすべての点で将軍の墓より荒削り、不揃いになっている……という。
それはひとえに明治維新という大転換のせいによるものだが、墓まで手をぬくとは薩長もいかにも料簡がせまいなあ……と、陰口、そしりをうけてもしかたがなかろう。
それにしても……。せまい墓所にとじこめらた将軍さまたち。世が世なら……と嘆いているのだろうか。
Takehisa Fukumoto's essay and column studio
2009-04-07
芝。増上寺の徳川家のお墓
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このBlogは小説書きの福本武久が「京おのこ」としてmixiにアップしている日記を再録したものです。
筆者が「見たこと」「聞いたこと」「考えたこと」を備忘録がわりにランダムに書き記してゆきます。自身の書く小説の舞台裏だけでなく、30年間追っかけている「駅伝・マラソン」のこと、仕事をはなれて、「競馬」や「競艇」についてのトピックやエッセイなど……。
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