2009-02-04
幻の名著 よみがえる!




 ヘミングウェイに『移動祝祭日』という短編集がある。岩波書店の新書版シリーズ「同時代ライブラリ」におさめられていたが、ながく絶版になっていた。昔 読んだ憶えはあるのだが、いつしか本は散逸してしまった。図書館で借り出すほかないなあ……と思っていたが、このほど「海外名作新訳コレクション」の一冊として新潮文庫になってよみがえった。

 2月1日の発売日にさっそく買いこんで再読している。同時代ライブラリーの訳者は福田隆太郎だったが、今回はヘミングウエイの短編集をはじめ「日はまた昇る」「武器よさらば」などの翻訳もてがけている高見浩である。文章がいくぶんやわらかくなり、字面もみやすくなった。何よりも「注」が豊富になり作品の背景がよくわかる。

 ヘミングウエイはいわゆるロスト・ジェネレーション(失われた世代)を代表するアメリカの作家、『老人と海』でノーベル賞をもらったことで知られている。ヘミングウエイといえば、まず『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』など長編が頭にうかんでくるが、おおくのすぐれた短編ものこしている。

 ぼくはどちらかというと短編のほうのファンである。むしろヘミングウエイの資質は短編作家ではないかとさえおもっている。

 『移動祝祭日』はかつてパリですごした青年時代を描いている。ここに収録された作品は作者のヘミングウェイが22から27歳までの時代。記者の仕事でパリにやってきて、作家としてとびたつ、まさにその時代である。新婚でこどもが出来たばかり、晩年の作者とは対照的にちょっとセンチでナイーブなすがたがうかびあがってくる。

 パリでのヘミングウェイ夫妻の暮らしはどん底、そんななかで競馬だけが救いだった。 夫妻はよく競馬場に出かけてゆく。たとえば……。


「いま競馬に使えるだけのお金がほんとうにあるの、タティ?」妻が訊いた。
「いや。とりあえず収支トントンになればいいと思うんだが。他に何か、これという使い道はあるかい?」
「そうねぇ」
「わかってる。このところ、やりくりが大変だったからな。ぼくは財布のひもを引き締めて、金の使い方をだいぶケチってきたから」
「そんなことはないんだけど」妻は言った。「でも」


「ぜひ行きましょうよ」妻が言った。「ずいぶんご無沙汰してるじゃない。競馬場にはランチとワインを持っていきましょう。わたしがおいしいサンドイッチをつくるから」
「汽車に乗っていこう。そのほうが安くつく。でも、気が進まないなら、無理にいかなくていいんだぜ。きょうは何をしても楽しいさ。こんなにすばらしい日なんだから」
「ぜひ、いかなくっちゃ」

 二人は競馬場にでかけてゆくのだが、そのときのいそいそしたようすが何ともほほえましく眼にうかんでくるのである。さらにこんなくだりもある。

「以前オートイユ競馬場のレースで、妻は黄金の山羊(シューヴル・ドール)という馬に賭けたことがあった。賭け率は百二十対一(=120倍)だった。その馬は二十馬身の差で先頭を走っていたのだが、最後の跳躍で転倒してしまい、わが家の6ヶ月分に相当する儲けがふっとんでしまった。二人ともそのことはもう忘れようと努めていた。」

 収録されている20あまりの作品になかには、若きヘミングウェイがパリで出会った人たち、ガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイスらについて存分に語っている。とくにあのフィッツジェラルドとの奇妙な交友のありかたには興味ふかいものがある。


 『移動祝祭日』はヘミングウエイ晩年の作だが、はからずもこれが遺作となる。同作品を書きあげたかれは、ほどなく猟銃自殺してしまうのである。したがって同書は作者の死後、夫人(4番目の夫人)の手によって出版されたのである。

 死の直前にパリですごした青春時代を回想したのは、どん底の生活だったにもかかわらず、夫婦と幼子が身をよせあうようにして暮らしたころが、人生のなかでいちばん輝きをはなっていたと思いあたったからだろう。たとえば、こんなふうにも書いている。

「私たちは金をつかわずにたっぷり食べ、金をつかわずにたっぷり飲み、暖かい眠りを二人で存分に味わい、こころゆくまで愛し合ったのである」



0 コメント | コメントを書く  
Template Design: © 2007 Envy Inc.