2008-04-12
馬は苦しんで暴れながら死んでゆく

「馬の瞳や耳をみると、馬がどんな気持ちでいるか、わかる気がする。落ち着いてゆったりした気持ちであるか、ちょっと緊張ぎみか私のことなど目に入らず興奮真っただなかか……。」  

 渡辺はるみ著『馬の瞳を見つめて』(桜桃書房 2002年刊)の一節である。全編がこんな調子でつづられている。馬をこよなく愛する人にしか、書けない文章である。

 著者はナイスネイチャなどを生んだ渡辺牧場の経営者夫人である。獣医をめざしているときに、実習で出会った馬の魅力のとりつかれ、とうとう大学を中退して牧場に嫁入りしてしまったという経歴をもつ。

 牧場で生まれる馬を、まるでわが子のような視点でとらまえ、生まれ、育ち、競走馬として巣立ってゆくさまを、愛といつくしみあふれる筆で切々とつづる。牧場のオカミさんの細腕繁盛記でもある。

 読者としてもっとも胸を打たれるのは、「自分の牧場でうまれた馬を最後までみとどけたい」という著者のなみなみならぬ姿勢である。  

 歌の文句にあるように、「ワラにまみれてヨ~、育てた栗毛」とはいえ、「今日は売られて街にゆく……」となれば、いくら愛着があっても、そこで今生の別れとなる……というのがふつうの生産者というものだろう。ところが著者は競走馬として引退したり、ケガや故障で廃用になった馬を、再び牧場にひきとって、最後までみまもってやろうとするのである。

 サラブレッド、競走馬は走れなくなればどうなるか? これが、あんがい知られているようで知られていない。馬は大切に世話してやれば30歳ぐらいまで生きるが、天寿を全うする馬はほとんどいないのが現実である。  

 種牡馬や繁殖牝馬、あるいは乗馬用など第二の人生を歩むことができるのは、ほんのひとにぎりで、ほとんどが殺されて「肉」になる。市場に出回っている食肉やペットフードの材料になっているのである。  なぜか? 

 馬一頭を生かしつづけるには多額の金がかかるのである。たとえば馬一頭養うとすると、あたりまえとはいえ一馬房を余分に使い、貴重な放牧地の面積と地力を消耗させることになる。さらに労賃、エサ代、寝ワラ代がかさむ。走れなくなった馬は赤字しか生まないのである。

 だから走れなくなれば廃用となり、ただちに家畜業者に売り渡され、食肉卸業者の手によって解体されてしまう。競走馬も牛や豚、鶏などと同じように経済的動物だという割り切りかたがそこにある。

 だが著者の渡辺はるみさんはちがう。自分の牧場から巣立った競走馬をつねに追っかけていて、廃用になったら牧場にひきとる。わが子のような生産馬は、やすらかな天国へ旅立つのを見まもりたい……というのである。

 そういう著者の思い入れは、時としてあまっちょろい感傷として、生産者として命取りになるやもしれない。自身の存立そのものを危うくすることにもなりかねない。けれども彼女はそんな決死の綱渡りで堪えている。そういう彼女の苦悩と葛藤が、理屈ではなく、具体的な日常を通して克明に描きだされている。

 たとえば……。引退した競走馬を積極的にひきとってきた渡辺牧場といえども、牧場がいっぱいになると、やむなくどれかの馬は処分しなければならなくなる。そんな場合、著者はしかたなく馬がなるべく苦しまないように、麻酔剤を使っての安楽死の方法を選択する。獣医の手をわずらせるから高額の費用がかかる。 次にかかげるのは文中の一節である。

「誕生日の早いヒットからやることにした。彼らは注射をされることには慣れていて、何とも思わない。口に一杯、好物をほおばりながら…。 鎮静剤の後、麻酔薬を注射してもらうと、ヒットは突然バタンと倒れた。」「薬剤を入れるとすぐに反応があり、最後は痙攣が起きて四肢をうーんという感じで伸ばし、息絶えた。」  

 その後、彼女自身がトラクターで遺体を運び、シャベルカーで穴を掘って埋葬する。まさに気が狂いそうなな状況である。けれども彼女自身は決して眼をそむけないで、周囲も自分をも客観的にみつめ、きびしく撃っている。

 競馬は「夢とロマン」だというだが、光輝く部分が大きければ大きいほど、蔭の部分も深いものがある。ファンに知られればイメージダウンになるから、JRAは公表しないが JRAだけでも年間数千頭におよぶ馬が、殺処分となっている。地方競馬もふくめればさらに増える。家畜商はゼニと人出のかかる安楽死というような方法をとらない。眉間に鉄棒で「バシッ」とやってすべてを終わらせる。

 競走馬の余生というものに初めてスポットを当てた。著者の手柄はまさにそこにあるといえる。競馬の主役であるはずの馬の立場や福祉がないがしろにされているではないか。馬は何のために生まれてきたのか、何のために生きたのかもわからないまま、最後は苦しんで暴れながら死んでゆく。  これでいいのか? 

 著者は、競馬にかかわるすべての人はもちろん、馬券を買うぼくたちファンにもきびしく問いかけている。



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