2008-03-27
ある女性レーサー勇気ある挑戦!

 男女が全く同じ条件で覇を競う。そんな競技スポーツはあるだろうか? おそらく競艇だけではあるまいか。競艇には男女のわけへだてというものがないのである。

 そのせいというわけではないだろうが競艇は選手同士が結びつくことが多く、夫婦共働きのケースもめずらしくない。あるいはシングルマザーとして競技生活をつづけている女子選手もいる。

 佐々木裕美はそんな選手のひとりである。昨夜フジテレビの「すほると」で佐々木が登場、波乱万丈の生きざまがドキュメンタリータッチで紹介されるのをみていて、「そうか、あれからもう一年たったのか!」と思った。

 佐々木の初出走は1999年である。2002年9月津競艇場の女子戦で初優出、2003年5月に唐津の女子リーグで初優勝(唐津)とまずは順調な足どり……。2004年11月に同期生の坂谷真史と結婚、競艇界に美男美女カップルの誕生と話題になった。

 佐々木は結婚後まもなく産休に入り、一児(長男・凱くん)をもうけてから、2006年1月の多摩川競艇場・オール女子戦でレースに復帰した。そして2日目のメインレースで女子のトップに立つ日高逸子、横西奏恵らを5コースからツケマイで沈めて、復帰後の初勝利をあげている。

 佐々木裕美と坂谷真史はおしどり夫婦レーサーとして将来を嘱望されていた。坂谷は今垣光太郎に次ぐ福井の看板選手となり、佐々木も女子のトップクラスにのぼりつめた。だが……。そんなときに思わぬ奇禍に遭遇することになる。

 2007年の2月……。坂谷真史はトップレーサーが集う住之江の「太閤賞・開設50周年記念」という晴れ舞台に出走がかない、佐々木裕美も女子選手としての最高の舞台である「女子王座決定戦」に出場がかなった。

 悲劇は住之江の最終日2月26日にやってきた。第3レースに出走した坂谷は2,3着争いをしていたが、2周目の第1マークで内側から激しく迫ってきた6号艇に押されて横転、そこへ後ろからきた3号艇が乗りあげたのである。救助艇に水面から引き上げられたが、坂谷はすでにして心肺停止状態だった。

 佐々木裕美は事故当時、山口の徳山競艇場にいた。翌日から始まる女子王座決定戦にそなえて、前日におこなわれる検査に臨んでいたのである。午前10時すぎに競艇場に到着した彼女は、持ちまえの明るさで、「頑張ります」と抱負をかたっていたが、正午すぎに夫の事故を知らされたのである。同シリーズを欠場することにして、ただちに大阪に向かったが、その途中で坂谷の死亡を知らされたというのである。

 身近な者、しかもわが夫が事故による不慮の死をとげた。同じ競艇選手ゆえに衝撃ははかりしれないものがあるはずだ。おそらく佐々木は競技生活にはもどれないだろう。そのまま引退してしまうにちがいない……と思っていた。

 ところが……。佐々木はそんなぼくたちの思惑をあざわらうように10月(13日)に復帰を果たした。さらに……。驚くべきは復帰戦となる競艇場に住之江を選んだことである。夫の坂谷真史が事故死したあの住之江競艇場で復帰を果たしたのである。

 夫と一緒に参戦するつもりで、あえて住之江を選んだ。自分が走ることによって、ファンの方々に坂谷を忘れないでほしい。そういう思いで水面に帰ってきた……というのだから肝がすわっている。

 初日の1レースを走り終わった彼女は「これで吹っきれました。もうどこでも走れます」と涙ながらに語ったという。そして4日目、みごとなターンぶりで復帰後の初勝利をおさめたのである。

 テレビ放送のあった同じ昨日の昼間、佐々木裕美は浜名湖で走っていた。オール女子戦の準優勝戦(10R)、3号艇での出走だったが、内側の池田明美に逃げられた。2コースの山川美由紀にもうまくさばかれて3着に終わったが、着実の地力はついてきているとみた。

 佐々木はあえて遺児をかかえてシングルマザーとしての選手生活をつづけることを選んだ。そろそろ3歳になろうという凱くんは、そんなママをどんなふうにみているのだろうか。かれが大きくなったとき、彼女自身が父親のことをどのように語るのだろうか。

 そして物心ついたころの凱くんはそんな父親と母親の生きざまを知ったとき、いったいどのように思うのだろうか。

 おそらく……。佐々木は自分たち夫婦の生きざまを誇らしくわが子に語るために、あえて競艇にもどってきて、死と紙一重のレースにのぞんでいるのだろう。テレビをみながふとそんなふうに思った。



0 コメント | コメントを書く  
Template Design: © 2007 Envy Inc.